陛下の戦災復興状況のご視察

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 昭和二十一年六月七日、天皇陛下が千葉市の戦災復興状況のご視察に来市しているが、そのさい陛下に奏上した渡辺市長代理の奏上文はつぎのとおりである。戦災と復興状況などがよくわかるので、まとめて掲載することにする(渡辺良雄元助役所蔵)。

奏上文

 千葉市は大正十年一月市制が施行され、昭和十二年二月隣接の四か町村を合併し、更に昭和十九年二月一村を合併して現在に至って居ります。
 本市は千葉県庁の所在地である関係上、各官衙、学校、会社等多く、終戦前は軍部隊と、工場の進出がありましたので、戸数は年々増加の傾向にありました。
 昭和十九年二月現在の戸数は、二万二六八一戸、人口一一万〇一三九人に達したのであります。
 昭和二十年六月十日朝、爆弾による空襲を受け同年七月七日早暁、再び焼爆混用の空襲を受けまして、市の中心部であり、人家稠密の地域が最も被害が甚しく、罹災面積約七〇万坪、戸数約八千九百戸、人員約三万八千人に及びその内死者八九〇人、重軽傷者約千五百人を出しました。
  罹災建物の主なるものは
  国民学校         五
  公私立中学校       四
  主要会社、銀行、工場   七
  病院、診療所      二二
  神社、仏閣       一〇
  郵便局          五
の外裁判所、憲兵隊、連隊区司令部、鉄道管理部、省線本千葉駅、京成千葉駅、県食糧営団、県農業会等はいずれも全焼致したのであります。
 又軍学校及び部隊 六 東京帝国大学第二工学部、千葉医科大学及び同附属病院は、いずれもその一部を焼失致しました。
 当時罹災者は大部分が市内の罹災しない地域の知人を頼り一時的に寄寓し一部は焼失を免れた学校、旅館等に収容致したのであります。
 食糧は県の斡旋と軍隊の応援を受けまして、三日間は全罹災者に給食し、次の五日間は主要食糧を無償配給し、爾後普通配給に復しましたが、極めて順調な進行を見たのであります。
 負傷者に対しましては軍部隊、医科大学及び市内医師に依って組織された救護班により、五ヵ所に治療所を設けて、手を尽くしましたが、これ又おおむね順調に進みました。
 罹災者はその後間もなく、急造バラックの建設を開始するものもありましたが、一方県当局の協力を得て、木材その他建築資材の配給と、仮設住宅の建設に着手致しまして、現在におきましては、仮設住宅約千三百戸、本建築に近い住宅約千戸の完成を見るに至りましたが、今猶約二百戸は、掘立小屋に居住して居る状態であります。
 更に目下建築中のもの約三百戸、建築計画中のもの約二千戸であります。此の外元陸軍戦車学校と、日立航空機株式会社工員寮に約二五〇世帯が居住して居る現状でございます。
 以上の状況でありまして、昨年十一月一日の人口調査の結果によりますと、市の戸数は、一万九八九三戸、人口九万五九〇三人でありまして、昭和十九年二月の調査と比較致しますと、二七八八戸、一万四二三六人減少致しておりますが、之は全く戦災による市外転出者のためであります。其の後逐次復帰致しまして現在では戸数二万二〇〇九戸、人口一〇万五三九八人となっております。
 次に千葉市復興計画の概要を申し上げます。
 鉄道関係の改良計画と致しまして、千葉駅を現在の機関庫附近に移転し、別に貨物専用駅を、現駅の東方に新設し、省線電車を蘇我駅まで運転する事と致しまして、今の本千葉駅を廃して、蘇我駅との中間に新駅の設置と、京成千葉駅を今の本千葉駅の位置に、移すことに内定しておると、承っておりますので之を基礎として、街路、緑地及び土地整理等の計画が樹立されたのであります。
 街路計画は、一応土地区画整理区域に直接関係ある約一一七万坪の地域に止めまして、災害防止の必要上、道路の幅員を拡張致しますと共に、道路又は、河川等の天然地形を利用して、緑地帯を作り、之を大緑地に連結する等、防火、交通の便益を計り更に経済復興の要件として、港湾の構築を想定致しまして、之に対する街路を計画致したのであります。
 一方保健衛生の施設として、千葉神社及其の隣接地に中央公園約五一〇〇坪、教化の中心として、荒木山公園約三万四千坪、体育運動場として道場公園一万坪を主とし、八箇所の大小緑地を設けたのであります。
 以上の基本計画に拠りまして、国庫の高率補助の下に万難を排して、土地区画整理を実施する所存であります。
 本計画によりますと、全区域中、道路二七パーセント、公園緑地八パーセント強、一般宅地五五パーセント、其の他一〇パーセント弱となりまして、宅地は一戸当約六〇坪となるのであります。
 更に商店街、娯楽街、官庁街、学園等の、配置構想は第二次計画に依り実施することに致しました。
 以上千葉市の罹災状況と其の復興概要を謹んで上聞に達する次第であります。

天皇陛下ご来市