復興対策

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 昭和二十二年二月の定例市会では新年度の骨格予算を例年決めることになっているが、昭和二十二年は、地方自治法の公布が目前であったので、予算を暫定的に決めることで承認された。したがって新市会議員選挙後の五月の新市会で全面的に予算の追加更正が行われた。

 その総額は二、七八五万六五九九円で、予算はふくれるばかりであった。予算の内わけは経常費が一、三五三万三二四七円、臨時費が一、四三四万三三五二円、大半が人件費であった。「戦災と敗戦」の項にあるとおり、公務員の給与ベースが一年のうち三回も引き上げられるというインフレ下にあったため、人件費の増加はさけられなかった。

 昭和二十二年半ばごろになると終戦直後のような混乱はやや平静化してきたが、食糧不足はいぜん深刻であった。米軍の千葉軍政部長カリー中佐が供出米の督励の陣頭指揮をとる一方、千葉中(現千葉高)の講堂に県下の関係者を集めて供米を指示している。就任間もない川口為之助知事も供米行脚をつづけるなど県政も市政も食糧対策が最大の問題であった。東京では食糧メーデーが開かれたほどである。

 食糧不足は昭和二十三年になっても解消しなかった。同年七月の『市議会議事録』をみると、七、八、九月の三ヵ月間に主食の米は十五日分しかない、あとは代用食であるとして食糧対策が真剣に論議されている。

 加納市長は、やむをえず八、九月は、それぞれ米を五日分ずつ配給するしかないと答えている。一ヵ月に米が五日分しかなかったわけである。

 この食糧対策とともに焼失学校の復旧、住宅の建設も急務であったが材料の不足と財源難にあって思うようにならなかった。住宅の建設については『戦災復興誌』によると、第一次分として住宅営団の手で二〇・六平方メートル(六・二五坪)の住宅を三五〇戸建設、ついで軍用施設を住宅に転用する一方、引きつづき住宅の建設をすすめ、住宅営団で四五〇戸、戦災援護会で七〇戸、市営住宅百戸、計六二〇戸を建築、戦災者や引揚げ者などを収容する計画をたてている。

 昭和二十三年の『市政要覧』をみると同年までに住宅として自営六、四一八戸、県営住宅四〇戸、同転用住宅五四戸、バラック五五五戸が建てられている。

 昭和二十二年、市は財源不足を補うため市営製塩事業を計画している。このことについては、昭和二十二年二月八日の『千葉新聞』をみると、次のように書かれている。

 千葉市営製塩工場の竣工式は七日午後一時から加納市長を始め関係者七十余名が出席、年産一千トン(総工費三五五万円)電力供給事情が緩和され次第操業。

とあるが、同製塩事業はコスト高などが市会で問題となり、操業しないまま中止している。翌二十三年の当初予算は初めて億台に乗せ一億二五九〇万七二九円となった。

 県税付加税率を引き上げることにより増収をはかるとともに、学校建築などは起債に頼った。この年は特別会計の全部を一般会計に繰り入れている。また、この年は日立航空機製作所跡の埋立地の特別処理問題が論議されたが、これには権利がからんでいるとして紛糾した。

 更に同年には財源難解消のため穴川の軍用地跡と稲毛の加藤製作所跡のいずれかへ競馬場の建設を計画したが、地元の反対や他市との競願にあって実現しなかった。

 ついで昭和二十四年一月の市会で競輪場の開設を決定し、二月に自転車競技条例を可決、旧鉄道連隊跡に設置することになり、周辺約一六万平方メートル(約五万坪)の払い下げを受け、競輪場及びスポーツ公園施設の設置を行った。三月市会では二十四年度の当初予算二億七二五三万九八〇〇円を可決、市営競輪事業の成功とともに市の財政も漸次安定の方向へ向かった。

 昭和二十四年の市の機構は総務、民生、経済、建設の四部十五課、一室と農地委員会、教育委員会となっている。

 昭和二十五年二月には市制三十周年式典を行い、人口は一二万余となった。同年四月加納市長が辞仕し、選挙の結果後任市長に宮内三朗が、当選した。

 戦後の市政は戦災復興、財源難、食糧対策が主なものであるが、そのうち教育費不足の一端として、昭和二十一年四月の『千葉新聞』に「千葉市立高女(千葉東高)県立千葉高女の生徒一人当りの予算が一ヵ月三円しかない」と嘆いた記事が出ている。

 また食糧のヤミ横行を取り締まるため、警官による列車取り締まりが連日のように行われているが、昭和二十一年一月二十六日には国鉄千葉駅に警官が一五〇人も出動している。昭和二十三年の正月用としてモチ米が一人当たり五百グラム(昭和二十二年十二月十八日付『毎日新聞』千葉版)が配給されている。子供たちにはお年玉として四歳から七歳の子供にアメ玉五〇個が配給されている。

 国立千葉療養所(千城村)では軍の施設として医療体制が整備されていたので、戦災者や生活困窮者を無料で入院させ、当時の苦しい世相の中で明るい話題となった。

『戦災復興誌』の表紙 <県立中央図書館蔵>