昭和二十年八月十五日、日本は連合軍に無条件降伏し、米英両国に宣戦を布告して以来約四年の戦争に終止符を打ち、平和を取り戻した。これとともに国内の民主化政策がつぎつぎに実施に移された。
九月二日降伏文書に調印するや、同十月二日にはマッカーサー元帥を司令官とする連合国最高司令部が設けられた。この降伏文書に調印の当日発表された指令第一号(陸海軍一般命令)によって軍事産業の停止と陸海軍人の復員が開始された。外地の中国や東南アジア、樺太などにいた部隊は別であったが、国内は十月には復員も終わり平静となった。
ついで昭和二十年十一月三十日には陸海軍省が廃止されたのをはじめ、軍の諸機関、部隊はすべて閉鎖された。軍都として鉄道連隊、戦車学校、歩兵学校、防空学校、気球隊、兵器補給廠のほか、数多くの部隊(第五章第十三節第五項「戦災と敗戦」参照)が駐留していた千葉市では、これらの部隊の解散、復員などで様々な現象が起こった。
物資不足時代とはいえ、軍への物資納入や出入り商人は一ぺんにお得意を失う形となった。ただ、千葉市は空襲によって軍施設は大きな打撃をうけていたので、閉鎖とはいっても比較的スムーズにいったといわれている。
米軍の駐留が開始されてから、まず昭和二十年十月十一日に五大改革の指令が出された。それは、
- (一) 婦人に参政権と自由を与えること。
- (二) 労働者の団結権と団体行動権を保証すること。
- (三) 人びとの自由を奪うような諸制度を廃止すること。
- (四) 超国家主義、軍国主義を排除して自由主義教育に改めること。
- (五) 経済改革――財ばつ会社の解体を行うこと。
であった。日本の在り方を根本から変える政策でもあった。これより先、昭和二十年九月から戦犯の逮捕が始まっており、特高警察も当然廃止となった。また、十月四日には天皇や、政府の批判を禁止している法律や規則の廃止及び政治犯の釈放、内務大臣・警視総監・全国の警察部長をすぐ辞めさせよとの基本政策も出された。この間の経過を順を追ってみると次のようになる(『資料日本文化史』)。
▽八月二十八日=言論、集会の取り締まり緩和。
▽九月二十九日=新聞に関する制限の廃止。
▽十月四日=政治犯人の釈放、思想警察の廃止・弾圧諸法令の撤廃(治安維持法や思想取締法などの廃止)、信教の制限排除。
▽十月三十一日=軍国主義・極端な国家主義者などの「教職追放」。
▽十二月十五日=神道と国家の分離。
▽昭和二十一年一月四日=軍国主義者・極端な国家主義者・侵略戦争の推進者などの「公職追放」。
▽婦人参政権の獲得=昭和二十年十一月の国会で選挙法改正によって成立。
以上のように日本に進駐してきた連合国最高司令部は、日本の非軍事化を徹底的に推進した。特に産業界の全軍事工場の活動を停止したため、失業者が多数でて混乱状態を呈した。例えば千葉市稲毛の加藤製作所には従業員千七百人のほか数百人の勤労学徒が働いていた。それが閉鎖されている。工場は農機具工場として同年十月に再開されてはいるが……。また公職追放によって大政翼賛会の関係者をはじめ、市町村長や議員なども資格審査によって、これまた数多くの人が公職から追放された(昭和二十五年に公職追放解除によって、以後再び政界にカンバックした人も少なくない。)。
教育の自由化とともに昭和二十年に学校教科書のうち修身、日本歴史、地理などの教科中止も指令されたが、その後歴史については総司令部の削除したもの以外は使用を認められている。
こうして国内の政治、経済、教育、社会制度、人権などあらゆる面で一八〇度の大転換となった。同時にこれに基づいて各種の法律が整備され、労働組合法や労働関係法、警察法、農業協同組合法など各種法案が国会の議決を経たのち公布された。
このほか農地改革、新憲法の制定、財産税、地方自治法の実施など矢つぎ早の改革が行われた。
農地改革は、敗戦後直ちに着手され、その法的措置は、昭和二十年の第八十五議会に出された「農地調整法」によるものである。同法は議会内部に審議未了にさせようという動きがあったが、マッカーサー司令部は同年十二月九日に「民主々義発達の障害をとり除き、人民の権威を確立し、日本の農地を数世紀の間、封建的抑圧の下に置いてきた経済的束縛を破壊するため」の農地改革を指令してきたので同法案が成立、第一次農地改革が実施された。この指令にもとづく第一次農地改革では、十分な成果があがらなかったので、二十一年に第二次改革を行うことになり、「自作農創設特別措置法」「農地調整法中改正案」が制定された。
この二回にわたる改革によって、不在地主の廃止、地主の土地保有制限、小作料金の金納化とその制限が行われ、全国で約三百万町歩の農地が解放された。
〔第一次農地改革の要旨〕
- (一)在村不耕作地主の保有面積の限度を五町歩、北海道は一二町歩とし、それをこえるものと、不在地主の所有地全部を買い上げて、これを有償で農民に分配すること。
- (二)土地の買い上げ、譲渡などは農会が行なうこと。
- (三)小作料は金納とすること。
- (四)農地改革を実施するため都道府県及び市町村に「農地委員会」を設け、その委員は選挙によって決めること。
〔第二次農地改革の要旨〕
- (一)在村不耕作地主の保有面積の限度を一町歩(北海道は四町歩)とし、また隣接町村居住地主も不在地主として取り扱うこと。在村地主の保有限度は三町歩(北海道は一二町歩)とすること。
- (二)買い上げ対象は農地以外必要に応じ採草地宅地に及ぶこと。
- (三)土地の買い上げは国家が行い、二年間で完了すること。
- (四)小作契約はすべて文書によることとし、小作権取り上げについて制限を強化するとともに、小作料の額を制限すること。
- (五)農地委員会の構成を改め地主側を減員するとともに、リコール制を定め、中央にも農地委員会を設けること。
- (六)地主には農地証券をもって代金を払うこと。
この第一次改革で百万町歩、第二次改革で二百万町歩が解放された。
第二次改革では、昭和二十一年十二月の市町村農地委員選挙に始まり、農地買収は昭和二十二年三月の第一回から昭和二十五年七月の第一六回によって完了した。第二次分は買収農地が一七四万町歩余、財産税として物納されたものや旧軍用地や国有地の所管替え約一九万町歩、計一九四万二千町歩が耕作農民の手に渡っている。
買収価格は自作収益方式で算定され、田は賃貸価格の四〇倍(反当たり平均七六〇円)、畑は四八倍(同四五〇円)であった。小作料は小作料換算の七五円に固定されたが、三十五年に賃貸価格の廃止により、価格統制は解除された。しかし、小作料は七倍に引き上げられ統制下におかれた。