千葉軍政部

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 本県での連合軍による占領政策の動きは第五章第十三節第五項「戦災と敗戦」で若干ふれたとおり、終戦直後の八月三十一日にカニングハム准将の率いる米第一一二騎兵旅団が館山市に上陸以来、県内の各軍事施設に駐留し、武装解除と兵器、弾薬などの処理に当たった。

 行政面で不可分の関係を生じたのは昭和二十年十月十三日に千葉市に第八二軍政部ができてからである。同軍政部は、最初は県庁内の貴賓室などにおさまって県内の行政指導に当たった。

 その後、現自治会館の所にあった水産会館(軍政部使用後教育庁舎になる。)に移り、ついで現駐車場ビルの所にあったビルに移った(同ビルは、軍政部がなくなったあと農協連で使用。)。

 軍政部の任務は旧日本軍の兵器類の解体と軍用建物を含む軍用物資などの平和産業への転用計画にあったようである。

 第八二軍政部は、昭和二十一年一月の軍政部改編により千葉軍政部となったもの。初代軍政部長はスチーブンソン中佐で、ついで昭和二十二年六月にはカリー中佐と交代している。

軍政部の置かれたもと県水産会館

 そのころから軍政の方針が変わり、民主々義の育成と食糧自給計画を中心とする国内産業の助長、民生の安定に主力がそそがれている。中でもカリー中佐の供米督励、第三代軍政部長ヘスター中佐の徴税のための市町村巡回など県内行政の再建に尽力している。

 昭和二十四年七月一日に軍政部は廃止されて民事部と改称し、米第八軍民事局の直轄となった。したがって、それ以後は千葉民事部が行政指導の任務に当たったが、同年十一月になって千葉民事部も廃止となり、関東地方民事部の直接管轄下に置かれた。しかし昭和二十六年朝鮮動乱ぼっ発一周年の六月末にこれも閉鎖となり、米軍の監督行政から開放された。

 しかし、その後も千葉市には千葉防諜部がしばらく置かれていた。

 駐留軍は国内民主化のため思い切った政策を推進したが、千葉軍政部でも経済、公衆衛生、民間教育、労働、司法行政の各部門を設置し、毎週月曜日に知事と軍政部長の定例会見を行って、重要問題について相互に連絡がとられた。

 県庁の部課長に対して口頭指示、文書による勧告、指導がひんぱんに行われ、行政の実際についてもいろいろ要望、指示が出された。当時の軍政部の権力は絶対的なもので、異論をさしはさむ余地はなかった。したがって県をはじめ各市町村とも勧告をうけると、その実施に苦労したものである。

 中でも『千葉県政概要』によると、農地改革による売渡し状況が進展しないことは不満足である、供米の割り当て状況が満足できない、衛生施設が不適当である、などきつい指示が出されたため、その改善に懸命に取り組んだようである。

 民事部になってからも、民事部長と知事の定例電話連絡や週間の行政重要事項については情報交換を行っている。その結果、民事部の報告文書は一二〇件にも達し、県の担当者は処理に苦労した。

 こうして行政全般について指導が行われ民主行政確立のため貢献しているが、他方、進駐軍兵士用の兵舎、宿舎のほか高級将校用として一般個人住宅の接収、労務の提供などの苦労もあった。連合軍は絶対的な権力を持っていたので、指示事項はすぐにも実施しなければならなかった。

 労務の提供では千葉市周辺だけでも昭和二十四年が毎月平均三百余人、昭和二十五年が二五〇~二九〇人、昭和二十六年が二七〇人となっている。民事部は昭和二十六年に廃止されているが軍事施設はそのまま残っていたからである。

 新聞については、占領政策に反しないような制約をうけたばかりか、当初は事前検閲となり、それが昭和二十三年七月まで続いた。ただ千葉は東京よりゆるやかであった。事前検閲では編集面でかなりきびしい指導が行われ、民主化とは逆の現象もみられた。ただブラウン民間教育部長やリンドバーグ民間情報部長らの民間教育に対する助言、指導は当時の関係者から賞賛され、大きな足跡を残したという声が高かった。

 進駐後、県庁職員などは全員履歴書を軍政部に提出するよう要求され、個人干渉はなかったにしろ、いやな印象を与えたことは事実であった。