労働関係の動き

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 労働関係の民主化では、いわゆる労働三法が制定されたことである。まず昭和二十一年三月一日に労働組合法(二十四年に新法にかわる)が施行されたのにつづいて翌二十二年には労働基準法と労働関係調整法が施行され、これによって労働者の団結権がはじめて確立された。また、差別待遇の排除、男女同一賃金、強制労働の禁止、中間搾取の排除、若年労働者と婦人の深夜労働の禁止、一週四八時間制などが実現した。明治以来日本の労働者は低賃金、長時間労働を強いられてきた上に、団結権も認められなかった。特に戦争開始以来、自由な労働運動が禁止されてきたので、戦後の労働関係三法の確立は、働くものにとって画期的なものであり、労働者の地位向上がはかられた。

 労働関係の民主化では昭和二十年一月から労政、勤労の両課は警察部に属していたものを終戦後県庁の内政部に移管している。

 千葉関係でもこの労働関係三法の実施によって労働組合が相ついで誕生していった。その動きを『千葉県労働運動史』および『千葉新聞』などからみてみよう。

 一番最初は昭和二十年八月二十日に「人民戦線結成会議」が結成されたことであるが、ついで十月には千葉郵便局などで労働組合の結成が呼びかけられた。また京成電鉄の千葉営業所でも十月に労組の結成が決議された。ついで昭和二十年十二月五日には正式に京成労組が結成された。それは「戦争犯罪者、戦争責任者の即時退陣」などの要求となって現われた。同時に団体協約の締結、待遇改善要求となり本俸の五倍引き上げを獲得した。このときの要求貫徹のため、同労組では昭和二十年十二月十一、十二、十三の三日間バス、電車の無賃運送、いわゆる「タダ乗せ」のストを行った。

 稲毛にあった加藤製作所(一たん閉鎖後再開)では昭和二十年十二月に会社側の協力もあって労組が結成された(それ以前に結成の活動が推進されていた)。同組合では「有給休暇、有給週休、所得税の全額会社負担」などを勝ちとった。

 教職員関係では、千葉市青年同志会が中心になって「子供たちのゴム靴よこせや待遇改善要求」をしたが、『千葉新聞』によると昭和二十一年末に教員の待遇改善のストが計画され大きな問題になっていた。千葉市会では「ストは反対であるが、要求は支持する」との態度をきめた。ついで校長の労働組合も結成された。その後昭和二十二年五月に千葉師範(千葉大学)で千葉教育者連合協議会、ついで十月には千葉県教員組合連盟が結成され、民主化教育推進のための運動を行った。また、昭和二十一年二月には県下六千人の女子教員が結束して教組婦人部をスタートさせた。

 国鉄での動きは、まず鉄道委員会を発足させたのち労組を結成した。組合については昭和二十年十二月に国鉄労組千葉支部連合会準備会を千葉車掌区で作ったのち、翌年一月五日に千葉管理部前庭で千葉管内運輸従業員組合を結成した。昭和二十一年九月には、国鉄当局の出した人員整理計画に反対して、組合がゼネストを予定したために、当局側は整理を中止した。

 千葉郵便局従業員組合ができたのは、昭和二十二年一月二十四日で千葉市役所二階会議室で結成大会を開き「旧弊打破、学ばつ至上主義打破、新日本の建設、住宅問題の解決、生活の改善」などを決めた。

 千葉大学でも報国団の解散と学生自治会の学友会の設立、教授会の公開などを昭和二十年十二月一日に小池学長に要求した。同大学では更に翌年五月、学内民主化の要求が出され紛糾した。

 この学内民主化は教授会の改革と戦争協力者の追放が主眼であった。紛争は約半年間つづき、十一月に解決した。解決のときの『千葉新聞』をみると、看護婦会と教授会とはいかなる発言権を持っていたかといえば、「医大諸事項の決定機関として、つねに封建的活動をしてきた教授会も学内問題の解決に際しては看護婦の代表と同一の発言権を持つにすぎぬ」とある。特に教授会は講師、助教授も含めて教育会議を設けて民主化案を検討することになった。

 また千葉師範学校附属国民学校では参与会で民主化をとりあげ、天下り役員の排除を要求、民主化にとり組んでいた(『毎日新聞』千葉版)。

 県庁では昭和二十一年二月六日に県庁内の議事堂に庁員を集めて組合が結成された。席上「人事の刷新、庁内の民主化、行政事務の刷新、待遇改善」が決められた。同年十一月十九日に待遇改善などを要求してゼネストを計画した。ついで翌年の三月には県下二十余の県庁出先機関などを打って一丸とした「千葉県職員組合」を結成した。県庁関係では発足当初に地方労働委員会から課長も労組に加入することが認められていた。

 労働運動の連絡強化のため千葉県労働組合会議が昭和二十一年六月十三日に結成されたが、その前に戦後県内で初のメーデーが行われた。そのほか民間労組も相ついで結成された。

 昭和二十一年の二・一ゼネスト計画のさいは一月二十五日に千葉中(現千葉高)講堂に一二組合、三千人を集めてスト宣言大会を開き、閉会後大和橋→千葉駅→吾妻町→県庁公園の順でデモ行進を行った。

 また、この二・一スト支援のため同年一月二十八日にも県庁公園で生活擁護県民大会が開かれた。戦災者、引揚者、復員者、農民など一六団体、三千人が参集し、「農業会の解散、井上警察部長の追放、小野哲知事の即時退陣、戦災者、引揚げ者用住宅の建設、吉田内閣打倒」などが決議された。

 しかし、このゼネストはマッカーサー司令部の指示で中止された。これより先の一月二十八日に千葉軍政部ではポツダム政令第三一一号により県当局に対し「隊伍行進、集会及び戸外での大規模な会合をする場合は五日以前に届けをせよ」との指令を出し、労働運動などについてわくをはめていた。

 こうした労働運動の盛り上がりとともに争議のあっせん・調停機関として、「千葉県地方労働委員会」が昭和二十一年三月一日に発足した。当初は推せんによって委員を決めていたが、翌年七月のときは労働者側委員の選出については組合員が無記名、五名の連記制によって投票で決めることになった。

 また同年四月には勤労署を廃止して公共職業安定所と労政事務所が新設された。

 昭和二十二年十二月現在の県下労働組合数は『千葉新聞』によると三六五組合、八万一二五〇人であり、翌年四月末現在では四五六組合、八万八千人となった。労働争議は二十一年が六件、二十二年が四五件と七倍にふえた。