その他の動き

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 民主化といえば、婦人問題が脚光を浴びているが、当初は意識は低かった。しかし女子だけの教員組合が結成されたのをはじめとして、昭和二十二年一月六日の『千葉新聞』によると「一九四七年(昭和二十三年)の年頭の扉を開くのは勤労女性である。民主主義の朝明け、地平線の上には太陽をうけつつ大地をふみしめて前進する勤労女性の姿が浮き彫りにされている。」と書かれており、婦人解放の動きをうたい上げた。

 その証左であろうが、昭和二十一年と翌年の衆議院議員選挙でそれぞれ婦人代議士が誕生したのをはじめ、昭和二十一年十月には婦人警官が六名千葉署に二ヵ月の講習を終わって配置された。これは戦後初めて本県に誕生した婦人警官であった。

 また、終戦後任命された千葉県の民生委員三千百余名のうち女性委員が五五〇名も進出したことは、女性進出を物語るものであろう。

 一方、虐待されていた女性解放の一つとして内務省は「娼妓(しょうぎ)取締規則、貸座敷営業取締規則」の廃止を指示した。この問題については、千葉市も新町、その他かなりの関係があった。

 戦時中から終戦直後にかけて市民生活の中で大きなパイプ役をつとめてきた町内会についても民主化旋風とともに改革されることになった。昭和二十二年二月八日の『千葉新聞』によると「町内会の行く途は任意の自治会に、隣組は配給組に脱皮。三月一ぱいで廃止される町内会、部落会の今後の処置について内務省は大体の方針を決定、千葉市でも町内会議を開いて方針を協議する」となった。

 しかし、町内会に代わる団体としては、同年三月の『毎日新聞』によると「マッカーサー司令部の指示で四月一日に廃止される町内会に代わる団体は不可」となっており、内務省地方局の指示で廃止されることになったため、しばらく町会の空白時代が続くことになった。

 またスポーツ団体の改革も進められ、首脳陣の更迭やベースボールの復活、神社への寄付禁止やお札の頒布禁止なども行われた。

 教育文化とともに関係のある新聞は、戦時中に一県一紙から、ついで東京各紙に合併させられて県紙のなくなった千葉市に、昭和二十年十二月一日から『千葉新聞』(社長・下村保)が発行されて、県内のニュースを報道する役割りを果たすことになった。当時はブランクット判二ページという小規模のものであった。以後用紙難によって用紙が配給になったためタブロイド判になるなどの苦闘もあったが、その後順調に発展したものの昭和三十一年に倒産し、翌年一月に現在の『千葉日報』が発行された。そのほか各種のローカル新聞や『房総春秋』や『特報』などの雑誌も発行された。

終戦直後発行された千葉新聞社社屋

 民主化運動の動きの中で昭和二十五年七月千葉新聞に県下で初めてレッドパージが適用され、三名が退職させられた。これはマッカーサー司令部によるレッドパージ旋風の一環であった。

 財閥(ざいばつ)の解体は昭和二十年十月に行われたが、千葉市では蘇我の日立航空機製作所(残務整理の職員として六二〇人いた)=『千葉新聞』=は三菱系であった。しかし同製作所は財閥解体とは別に軍需工場であったので、軍需産業の禁止によって閉鎖された。

 この財閥解体では三井、三菱、住友、安田、川崎重工、日産、浅野、富士(旧中島)、渋沢、日本窒素、古河、大倉、野村、理研、日本曹達などの一五社の株券が凍結され、更に翌月三井、三菱、住友、安田の四大財閥の解体が指令された。ついで前記以外の八三会社の解体も「持株整理委員会」の手によって行われた。財閥解体とともに、いわゆる独禁法の「私的独占の禁止および公正取引の確保に関する法律」が昭和二十二年に制定され、経済力が過度に集中することを防止した。(しかし、これも昭和三十年代になって復活をはじめ、昭和四十八、四十九年には商社の買い占めなどが国会で問題になった。)

 千葉市では安田銀行千葉支店が財閥の解体によって富士銀行千葉支店(通町)と改称した。

 またインフレーション防止のため財源収入の増加、戦争による利得をとり上げるという目的で財産税の徴収が行われた。

 これは、いわゆる富の再配分をねらったもので、インフレーション対策としてはあまり効果をあげえなかったが、財産税と農地改革によって日本の上層、中層階級に大きな打撃を与え、特に都市、農村を通じ中産階級の没落が目だった。