昭和六年(一九三一)の満洲事変後、わが国は急速に軍国主義へと傾斜していった。この流れの中にあって、文教政策だけ例外に立っことはできないことで、昭和十年、文部大臣の諮問機関として、教学刷新評議会が設置され、「国体ノ本義」「臣民ノ道」などを刊行したが、近衛内閣の成立(昭和十二年)後、あらたに、教育審議会が設けられ、「皇国ノ道ニ則ル国民ノ錬成」が強調され、小学校は、昭和十六年四月、明治以来続いた、なつかしい小学校の名称を棄てて、国民学校に統一された。これに先だって昭和十二年二月十一日、千葉市は隣接町村の検見川町、都賀村、都村、蘇我町を合併していたので、検見川小学校、都賀小学校、都小学校、稲毛小学校、蘇我小学校、畑小学校を加え、市内は一一校の国民学校となるが、昭和十七年四月、都国民学校第一分教場が園生国民学校として独立、同じ十七年に新宿国民学校から、昭南国民学校が分離独立し、更に、昭和十九年、千城村が千葉市に合併して、千城国民学校が加わり、市内の国民学校は合計一四校となった。