昭和十九年、戦局は不利になり、米軍機による空襲はますます激しく、学校は荒廃に向かって転落していった。
昭和二十年二月二十四日の市議会において、本多保議員は、
昭南国民学校ハ請負ニ付シテカラ三年モ経過シテ居ルノニ、未ダ窓硝子ガ殆ド入ツテ居ナイ、当直室、炊事場等ニモ建具ガ殆ド無イ、先日雪ノ日ニ行ツテミルト教室ノ中ニ雪ガ吹キ込ンデ居ル
(昭和二十年度『市会会議録』)
(原文のまま)
と述べ、市当局に善処を望むが、物資の欠乏のため、施す手段はなかった。「欲しがりません、勝つまでは」を合言葉に、ひたすら精神力によって、全てを克服しようと教えこまれるばかりであった。中学生以上は学徒動員令によって、軍需工場等に動員されたが、国民学校生徒も食糧増産の名のもとに、かり出されていった。運動場を耕して、農園にするほか、
麦踏ニ就テハ国民学校生徒ニ御願ヒシテ、手不足ノ農家ノ御手伝ヲサセテ居リマス。
(二十年三月二日市議会、主事渡辺良雄の答弁)
甘薩ノ増産ニハ、先般内原ニ派遣シタ増産隊員ヲ基準トシテ、国民学校高等科生徒ノ労力ヲ以テ、現在伐採サレテ居ル山林ノ簡易開墾ヲ為ス如ク計画ヲ樹テ着々進行中デアリマス。
(二十年三月二日市議会、宮内三朗)
(原文のまま)
とあるように、高等科の生徒は開墾という困難な仕事に従事させられた。しかも、壮年の男子の先生は兵役にとられ、老年あるいは女子の先生が、その監督として、時には機銃掃射の危険にさらされながら、その任務を果たした。
そして、学校は遂に軍需工場に提供されることになった。
軍監理工場ニ対シ市立学校ヲ提供スルコトハ先般御承認ヲ得マシタガ、従来寒川、登戸、検見川、稲毛ノ四校ノ一部ヲ提供シテ居リマスガ、学徒出動ニ伴ヒマシテ、一部学校ノ校舎ノ模様替ヲシ、学校工場トシテ使用シテオリマス。
(二十年六月二十一日市議会、視学尾形猛男)
(原文のまま)
こうして、学校は軍需工場になるが、更に軍隊が学校に駐屯、学校は兵舎となった。『千葉市立椎名小学校学校沿革史』によると、昭和二十年四月二十日、範三八三五部隊八〇人が教室四、職員室を使用することとなり、本村に疎開していた東京都錦糸国民学校児童は、五月二日、岩手県に再疎開していった。六月にはいると七月末まで、四年生以上は授業を止めて、食糧生産に従事した。「三年以下の学童も之に準ず」とあるので、全校授業は全く停止されたらしい。
そればかりか、六月十二日より一週間、駐屯部隊が爆雷作製を始めると、女子職員を含む全職員が作業の手伝いをさせられ、八月一日には、遂に学校は軍隊組織に編成され、椎名国民学校学徒隊が結成され、もうそこには教育は存在していなかった。
終戦の四〇日前の七月六日、千葉市はB29約百機による、爆弾、焼夷弾で、市街地の大半を焼失するが、国民学校も、本町、院内、富士見、昭南、都賀の五校が焼失した。都賀国民学校長金籠省三は目前で、校舎が炎上する悲哀を味わわされた。
それは昭和二十年七月六日夜のことで、……学校では男の先生方が次々に召集され、今夜から女の先生方が二人宛で宿直するという最初の晩の事です。……敵は歩兵学校、気球隊、鉄道連隊、司令部等の軍隊施設を先ずねらったらしい。……従ってこれらの施設に近い都賀校は自然運命的な災害に見舞われました。……学校への第一弾は校門をはいってすぐ右側の二階建校舎と平屋建の中間でした。そしてひっきりなしの爆撃で手の施すすべもなく、次々に炎上してゆきました。
(『都賀小学校創立九五周年記念誌』)
また、本町小学校長飯島勝信は宿直教師ら三人とともに、空襲下、穴を掘って、学籍簿など重要書類を埋めて、大切な記録を守った(本町小学校九〇周年記念誌)。そして焼け残った学校も、被災者の収容所(登戸国民学校など)となり混乱をきわめた。
戦いは敗北に終わり、児童は再び学校に帰るが、校舎を焼失した市内五校は、六―三表にある措置に基づいて、九月の新学期を迎えた。千葉市役所事務報告では「概ネ九月十五日ヨリ授業ヲ開始セリ」とあるが、本町小学校の記録では「九月一杯は殆ど授業を行わず連日農園の作業を行った。」(前掲書)と見え、十月四日、教室の配当、学級担任を発表した。戦災で八、九〇四戸が焼失したため、児童数に著しい変化が生じていた。六―四表の(ア)は市街地の戦災校、(イ)は市街地の非戦災校、(ウ)は周辺部の非戦災校における昭和二十年度と同二十一年度の初等科在籍児童数の比較表であるが、市街地戦災校で急激な児童数の減少がみられ、市街地であっても、非戦災校はほとんど大きな変化はみられないが(二十一年を過ぎるとこれら学校で児童数は急増する。)、周辺農村部の学校は児童数の増加がみられた。そして、あまり変化しなかった市街地の非戦災校に、戦災校の児童が収容されて、授業が開始されたのである。当時、富士見国民学校(現新宿小学校)の生徒を受け入れた登戸国民学校の職員は、次のように回想している。
(『千葉市誌』)
担任した二年生は、二時間しか教室が使えないので、木陰の青空教室も利用いたしました。そのうち天理教を借りて半日交替の二部授業となりました。
(安藤美恵子)
かろうじて二部授業で学習が続けられた。冬の雨の日、午前組の終るのを待つ者は寒さでふるえていた。
(花島菊枝)
担任は四年生の女子、裁縫室を二つに区切った教室は五〇人近い子どもでいっぱいである。
(石原敏子)
道端には、燃える木一本も落ちてはいない程、薪に飢えている頃(昭和二十年)であった。遂には教室の机のフタまでなくなる始末となり、……出勤すると同時に、校務はさておき、フタ作りに専念をしなければ学習にならないこともあった。
(鈴木将七)
(『登戸小学校百年のあゆみ』所掲)
昭和20年度 |
1340 |
2004 |
1448 |
1071 |
昭和20年度 |
1561 |
1155 |
1193 |
昭和20年度 |
196 |
617 |
792 |
備考 昭和20年度は昭和19年12月末現在。
昭和21年度は昭和20年11月末現在の人数。
(市教育委員会調べ) (『千葉市誌』)
児童、生徒はすし詰の二部授業をしいられたが、焼け残った校舎の破損も著しかったのである。昭和二十二年度予算審議に際し、鴻崎豊吉、村田栄吉、黒子順一の各市会議員はこもごも立って次のように質問した。「商業学校は戦災をまぬがれて、立派な校舎が残っておりますが、このまま放置しておくと屋根がない所もあるので、折角の学校が腐朽してしまいます。」、「蘇我は古い校舎は形さえもない状態であります。」、「都賀小学校の校舎の破損は最も甚しいようでありますが、修繕費四万五千円でどの程度の修繕ができるのですか。」、これらの質問に、市視学尾形猛男は「商業の屋根は修繕します。」、「都賀小学校について、四万五千円では、雨漏りと危険防止の程度」と答えているに過ぎない。各議員も、市の財政状態からみて、これ以上の予算の増額は不可能と考えてか、それ以上の追求はひかえてしまった。尾形視学は、地元負担について、市当局と学校関係者の会議を開いて、この局面の打開をはかりたいと答弁して、地域住民の寄付をあおいで、学校建築を進めることをほのめかした。
しかし、この困難なうちにも、現場の教師の中には、新しい教育についての研究が進められていた。本町国民学校では昭和二十年十一月二十日新教育についての研究会に職員が参加しており、都賀国民学校においても学級経営についての熱心な討議がなされたという。ただ残念なことには各学校でなされた研究活動に関する資料が存在しないことである。しかし、千葉市において、教員組合結成前に、また、教育委員会成立前に、教科研究に関するサークルが既に設置されて活動をしていたということである。