千葉市教育委員会の設置

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 昭和二十三年七月十五日、教育委員会法が公布、施行された。この法律は、公正な民意により、地方の実情に即した教育行政を行う目的で制定されたものであった。千葉市は教育委員会制度に全面的に賛成し、昭和二十三年十一月一日、県と同時に千葉市教育委員会を設置している。

 まず、同年九月五日、市教育委員選挙の告示をし、教育委員会制度に関する説明会、座談会などを開き、各戸に啓蒙パンフレットを配布し、更に、自動車啓蒙隊と名付けて、街頭宣伝などをして、市民にやさしく地方教育委員会の意義を説明して、教育委員会に対する理解を深めた。立候補者一一名中四名の当選が決定、同年十一月一日第一回の委員会が開かれた。教育委員には白井辰次(委員長、市議会選出)、中江静枝(副委員長、四年委員)、尾形猛男(二年委員)、田中元吉(二年委員)、教育長に市教育民生部長・楠原信一(前千葉市立千葉高等女学校長)が就任した。昭和二十三年度千葉市教育委員会『事務報告』によれば、事務局職員定数は六―六表のとおり、合計一七名であるが欠員は七名にのぼり、四課九係では一人一係という状態であった。当時の職員の苦労がしのばれる。ところで、本市教育委員会組織上の特色は営繕課の設置にあった。先に述べたように、学校が軍隊、軍需工場に転用され、空襲により、五小学校(当時は国民学校)を失い、そのうえ、中学校の建設を負わされた市教育委員会において、当然といえよう。しかし、元来市町村教育委員会は建築、会計に属する課は法規上削除されており、営繕課が学校建築を発注するについて問題が生じた。加納市長、初代教育委員長白井辰次は市教育委員会が当面なすべき第一の仕事は学校校舎の建築であり、条例を制定して、学校建築を教育委員会が行うがよいと考えていたらしい。

6―6表 昭和23年度市教委事務局定員数
職種定員(名)
教育長1
主事2
技師2
指導主事1
書記6
書記補1
技手1
技手補1
事務員1
技術員1
17

備考 事務局編成
総務課(庶務係,経理係,学事係)
指導課(指導係,調査統計係,保健係)
社会教育課(社会教育係,体育係)
営繕課(営繕係)
(昭和23年度市教委『事務報告』)

 教育委員会は

 一 千葉市教育委員会傍聴人規則

 一 千葉市教育委員会会議規則

 一 千葉市教育委員会事務局暫定処務規則

と基礎作りから始め、おくれていた第四中学校(現椿森中)の昭和二十四年四月開校、新制市立女子高等女学校(現千葉東高)の葛城町より轟町移転を決定した。

 社会教育関係では、千葉市青年団連合会と共催して、農業経営講習会や市内青年弁論大会を開いた。

 六・三制 野球ばかりが 強くなり

とはやされたが、市教育委員会が、経費の補助をしている野球関係行事を挙げると、

 一 町内対抗野球大会

 一 市内中学校軟式野球大会

 一 ヘレンケラー事業資金募集野球大会

 一 軟式野球全国大会(千葉市より関東地区代表として選手派遣)

などがあった。

 スポーツの奨励によって、青少年の健全育成を図った。しかも、スポーツばかりでなく、十一月三日の文化の日を中心に、図書のできるまでの工程展覧会、児童作品展(書道、図画)、市民俳句大会、華道ならびに茶道展示会及び座談会、文化の日記念講演会、食生活改善粉食料理講習会などを主催し、混乱した世相にうるおいを与え、文化都市千葉の基礎作りに励んだのである。