新教育制度(六・三制)は具体的には昭和二十二年四月から始まった。まず、この年小・中学校が新制度となった。発足当初、校舎の建設など設備の充実と並んで、教員の確保が重大問題であった。教員採用の責任が負わされた各学校長は、学校内にいて教育内容の充実に尽くすべき時期に、外に出て教員探しに奔走していた。有資格者と思われると、拝み倒して連れてくる程であった。後に無資格者とわかり、追放される者もあったという。
旧教育制度では小学校教員の養成機関は師範学校であった。輝かしい伝統をもつ千葉師範学校では、男子部は戦災を免れたが、戦時中の荒廃のため、改築が急がれていた。女子部は戦災で校舎は附属小学校、幼稚園とともに焼失、四街道町に移り、旧陸軍砲兵学校跡の建物を仮校舎に授業を開始していた。このような逆境にあって、昭和二十二年六月十一日、大岡保三校長は数名の教官を学芸大学準備委員に委嘱し、県内小・中学校教員養成を目的とした新大学の具体的な規模、設備内容、それに経費等について、討議を重ねていった。その結果、次のような「千葉学芸大学設置要綱」(四四ページ参照)が発表された。
千葉学芸大学設置要綱、及び設置準備金募集計画
千葉学芸大学設置準備金募集計画
一、募集総額 参千万円
二、期間 昭和二十二・三・四年三ケ年計画
三、方面別募集目標
方面 | 人数又ハ戸数 | 一人又ハ一戸当目標 | 募集金額 |
県下各市町村 | 四〇〇〇〇〇戸 | 五〇円以上 | 二〇〇〇万円 |
同窓会員 | 五〇〇〇人 | 六〇〇 〃 | 三〇〇〃 |
教組員 | 七〇〇〇人 | 二〇〇 〃 | 一四〇〃 |
本校父兄会 | 一〇〇〇人 | 六〇〇 〃 | 六〇〃 |
附属校父兄会 | 一五〇〇人 | 四〇〇 〃 | 六〇〃 |
附属校同窓会 | 二〇〇〇人 | 三〇〇 〃 | 六〇〃 |
一般有志 | 三五〇人 | 一〇〇〇〇 〃 | 三五〇〃 |
母校現職教職員 | 二〇〇人 | 六〇〇 〃 | 一二〃 |
其ノ他 | 一八〃 | ||
計 | 三〇〇〇〃 |
当時は連合国の占領下にあり、民間情報教育局(CIE)は文部省に対し、現在の総合国立七大学を除き、すべての官立単科大学(千葉医科大学を含む)、各種の官立専門学校(千葉師範学校を含む)は全部地方に移譲して、運営は地方にゆだねるよう示唆していた。各層、各団体はこの案に反対しているが、
政府がその方針を改めないなら、本県にも完全な綜合大学を造らねばならぬと考えております。それには市としても、学園都市として千葉に本部を置くものを造りたい。東大の第二工学部(現千葉大学の敷地)も必ずしも東京大学に併合せねばならぬとは総長(南原繁)は考えていない。
就いてはこの第二工学部を千葉綜合大学に加入するよう南原総長に陳情をしたいと思います。
(和田平武、『千葉市会議録』昭和二十三年)
本県においても、CIE・政府案に反対であったが、万一に備え、第二工学部の敷地に総合大学を建設しようという計画が立てられ、総合大学案が否定されても、仮称千葉学芸大学を設置しようと決意していた。県議会でも同様の請願をうけ、委員は県側と同道して、南原東大総長に陳情したがこの案は拒否され、そのうちに、さきのCIEから示唆された案は反対運動の中で消え去ってしまった。
千葉学芸大学設置要綱
一、位置
第一校舎 千葉市市場町
第二校舎 印旛郡千代田町四街道
二、学級数
本校 三二学級 生徒数 一二八〇(男女共学)
附属学校 中学校一八 小学校二四 幼稚園六
経費概算 | 種別 | 摘要 | 備考 | ||
施設費 | 一三〇〇万円 | 本校 | 講義室 二 実験室(作業室を含む) 二五 | 研究室は改造のものを含む | |
研究室 二〇 小講堂(合併教室) 四 | 体育館は武道場を改造 | ||||
特別室 七 事務室 三 図書館 一 | 実験室研究室には瓦斯及び水道設備をする | ||||
体育館 一 教育研究所 一 臨海実験所 一 | |||||
七〇〇万円 | 附属校 | 普通教室 一二 特別教室 九 | 普通教室は学級増による不足 | ||
事務室 三 体育室 三 講堂 | |||||
備品費 | 六三〇万円 | 社会科 | 地図模型 | 凡て各教科運営上必要な備品機械器具類である | |
自然科学科 | 理化機械 実験用具 | ||||
職業科 | 家政科、職業科に必要な細備品用具 | ||||
芸能科 | 音楽、美術用具 | ||||
教職科 | 実験用具 | ||||
体育科 | 器具 球技具 | ||||
普通教室 | 実験室研究室の机椅子黒板等 | ||||
一般器具 | 共通備品 | ||||
一三〇万円 | 附属校 | 備品費 | 理科機械器具 家政科備品 | ||
器具費 | 椅子、机、教卓、黒板 | ||||
図書費 | 一三五万円 | 本校 | 和漢書、洋書、学術雑誌 | 学術図書雑誌類を充実 | |
一五万円 | 附属校 | 教授用参考書、生徒用参考書 | 図書館を拡充する | ||
計 | 二九一〇万円 | ||||
事務通信費 | 九〇万円 | ||||
合計 | 三〇〇〇万円 |
ところで、「千葉学芸大学設置要綱」は、当時としては巨額な三千万円中、二千万円は県下各市町村の寄付をあおぎ、四〇万戸県民から、平均一戸五〇円を目標に、全県をあげて千葉学芸大学を建設しようというものであった。
昭和二十二年十一月八日、具体的な募金活動の母体となる「千葉学芸大学創設後援会」が結成され、会規約が採択された。会長に千葉県知事川口為之助、副会長に千葉市長加納金助、及び当時の千葉県町村会長堀越英次があげられ、椙村辰之助を専任理事として活動にはいった。上記のほか、千葉市会議長石塚正二は顧問、市会議員(後の市教育委員長)白井辰次は常任理事、県会議員(後の千葉市長)宮内三朗は理事、後の市教育長楠原信一、その他千葉市関係者の多くが、理事、委員を兼ね、千葉市は千葉学芸大学設立に全面的に協力し百万円を拠出した。
ところが、昭和二十三年六月、文部省は新制国立大学に関する一一原則を発表した。
- (一) 国立大学は、特別の地域(北海道、東京、愛知、大阪、京都、福岡)を除き、同一地域にある官立学校はこれを合併して一大学とし、一府県一大学の実現を図る。
- (二) 各都道府県には必ず教養及び教職に関する学部もしくは部を置く
- (三) 国立大学の組織・施設等は、さしあたり現在の学校の組織・施設を基本として編成し、逐年充実を図る。
などが挙げられ、この原則に基づいて、昭和二十四年五月三十一日、「国立学校設置法」が制定され、全国で六九の新制国立大学が発足した。官立千葉師範学校は、青年師範学校とともに、千葉大学学芸学部となり、昭和二十五年四月、教育学部と改称した。政府の方針により、千葉師範学校は千葉大学学芸学部となって、単科大学千葉学芸大学は創立できず、同後援会の夢は遂に実らなかったが、同窓会、教職員、次いで、県下全市町村に広まり、全県的運動として、新大学建設に努力した記録は長く留めるべきであろう。