学校建築と六・三制の定着

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 先に述べたように、市町村教育委員会には建築・会計に関する課は設置しない原則であった。市にあっては、建築及びその発注は既存の市建築課の所管がたてまえであった。しかし、千葉市教育委員会は発足にあたり、事務局に総務課、指導課、社会教育課の次に営繕課を設け、学校建築に直接タッチすることとなった。戦災学校の復旧、戦争中に荒廃した校舎の改築、新制中学の新築などの重大課題を教育委員会自らが解決しないのは、無責任であるというのが理由であった。新設の教育委員会営繕課が学校建築に当たった結果、多年のうちに生ずる業者との弊風は全くなく、入札競争は激しく、予定価格の六割近くでなければ、落札しない程であった。そのうえ、生徒数の増加によって、当初の計画より二、三教室増設要求が出され、インフレーションで物価は急上昇して、請負った業者の苦しみは想像に絶するものがあった。昭和二十三年には、「土木業者の苦衷もまた察するに余りあるというべきで……諸物価の実質的高騰の状勢に処して、種々なる困難を克服し、犠牲的努力を傾注……よって……なんらの法的根拠はないがこれら業者の努力に対し、ある程度の金円を贈呈」しようとの要望書さえ提出された(昭和二十三年『市会会議録』)。

 昭和二十三年九月の市議会での報告では、各学校の建設状況は次のとおりとなっている。

 畑小学校  PTAの奉仕によって、工事は順調である。

 第三中学校 工事の進行は緩慢である。

 院内小学校 気球隊格納庫利用。

 都賀小学校 第一期工事八分どおり完成。

 若松小学校 期日におくれているが相当の校舎ができている。

(昭和二十三年『千葉市会会議録』)

 工事に当たり、各小学校PTAは労力奉仕ばかりでなく多額の金銭を積み立て、この地元負担金を基金に着工を市当局に依頼した。かくして着工しても、一挙に全校舎が完成するのは全くなく、ほとんど四期に分けて建設した。例えば新宿小学校では次の経過をたどった。

 第一期(四一一坪余)一二教室、旧給食室 二十二年十月二十九日

 第二期(二九五坪)四教室、職員室、玄関 二十三年十月二十二日

 第三期(四〇一坪)九教室、三特別教室 二十五年二月二十五日

 第四期(三四一坪余)一二教室 二十六年八月六日

 新宿小学校で、二部授業が解消したのは第四期工事完成の昭和二十六年九月からであった。また、葛城中学校においても、同じ二十六年に分散授業が解消して、全生徒を現敷地に収容した。このように、二十六、七年に市内の小学校はほとんど復旧し、中学校の新築が完成した。しかし、昭和二十八年、早くもベビーブームの波が小学校に押し寄せ、学校は校舎の増築を迫られたのである。

 なお、次のように昭和二十五年十二月、工事請負状況が市議会に提出された。

 (一) 千葉市立院内小学校新築工事(第四期)

  工事場所 千葉市祐光町三八

  契約金額 金参百九拾八万円也

  入札方法 指名競争入札

  建物坪数 総坪数二五七・五坪(校舎二四三坪便所及渡廊下一四・五坪)

  工事概要 木造二階建屋根厚型スレート葺

       外壁モルタル塗加工吹付仕上他に防火壁一ケ所

  請負人  千葉市松波町三二 磯野万平

 (一) 千葉市立新宿小学校新築工事(第四期)

  工事場所 千葉市新宿町二の一九八

  契約金額 金五百拾弐万円也

  入札方法 指名競争入札

  建物坪数 総坪数三四一・五坪

       (校舎三二四・五坪、便所及渡廊下一七坪)

  工事概要 木造二階建屋根日本瓦葺、外壁モルタル塗り

  請負人  千葉市新宿町二の一二三 旭建設株式会社 石井泰助

(昭和二十五年『市会会議録』)

 六・三制教育が定着したのは昭和二十六、七年ごろといわれる。この昭和二十六年はサンフランシスコ講和条約が締結され、日本が独立を達成した年でもあった。この時期の千葉市の教育をふり返って、六・三制の項を終わりとしたい。戦後数年間はアメリカの教育制度を大幅に取り入れ、制度の確立に努めていた。昭和二十六年ころになって、一応制度は整い、教育内容の充実に向かっていった。児童生徒の経験と興味・関心を重視する学習計画による授業が学力の低下をもたらすと反省され、落ちついた学習、地域の実情、教科の特質に合った学習が望まれた。市教育委員会は指導主事三名のほかに、小学校九名、中学校一二名(各教科一名)の教科指導員を任命、各学校を訪問して、指導助言に当たっていた。「能力表」を作成して、児童一人一人の学力伸展過程を分析して、一人一人の生徒の学力の充実に尽くした。市独自の教育・教科研究会も開かれ、市内を小学校は四ブロック、中学校は二ブロックに分け、小学校は年一三回、中学校は年八回、ブロック別研究会を開いて、生活学習を克服して、教科別学習に切り替えられていった。特に加曽利中学校は職業家庭科の経営、小中台中学校は保健体育科の研究、寒川小学校が個人差に応ずる教科指導、検見川小学校が算数科における誤算の研究などに着実な成果を挙げ、広く全市の教育内容の向上に貢献した。

 当時、二部授業は解消せず、しかも人口の増加もあって(特に登戸小、蘇我小)、市内小・中学校三三二学級中、小学校で八二学級、生徒数では一万六千七百余名中、四、四三二名の多きが二部授業を余儀なくされていた。そこで、市議会議員選挙の公約に、「学校建設と二部授業の解消」が打出されていた。また、次第に市民の経済状態の安定から、保護者は教育問題に強い関心を持ち、PTA活動の活発化にともなって、市当局に教育環境の改善を求めていた。教育委員会においても、学校の適正規模の問題から、あまりにも過大な学校の分割を計画、葛城中学校、蘇我小学校、登戸小学校などの学区の分割を実施しようとしていた。市街地学校の分割計画と並んで、周辺部各学校の校舎の改築が議論されてくるのもこの時期であった。改築・増築の際、普通教室ばかりでなく、理科室と音楽室を必ず建設するようとの要求も強く起ってきた。理科室は科学教育の振興に、音楽室は情操教育に連らなり、理科教育は葛城中学校で、音楽教育は登戸小学校がめざましい成果を挙げた。

 教育費については、昭和二十六年当初予算総額一億一〇五万円、総予算に占める割合は二〇パーセントで、科目別歩合では最高を占めていた。前年度に較べ増額されたのは、学校給食費一六五万円、PTA負担軽減のための需要費六八四万円等であった。学校給食について、本市は長い伝統を持っている。本町小学校では昭和七年、欠食児童のための給食を行い、昭和九年からは偏食是正を加え約三〇名の者に給食をして、児童の体位向上にあたり、昭和十八年まで続いていた。戦後、ララ救援物資及び占領軍放出物資による学校給食は昭和二十一年十二月二十四日より始まり、同二十二、三年ころは週四回の給食がなされていたが、昭和二十四年度、都小学校において、ユニセフ学校給食のモデル校としてミルク給食を行った結果、完全給食のための経費の増額を行った。元来、無償であるべき義務教育が、PTA費、寄付金の名目で、年々増加の傾向から、政府は昭和二十六年度入学児童に国語・算数の教科書無償給与の法律を制定した。これを受け、千葉市は昭和二十六年度新入生二、七九八名に対し一人宛四冊の無償給与費、四七万四〇二三円を計上し、ほかに需要費六八四万円を増額して、PTA費の軽減を図った。これによって、学校運営費の約六割が市費、残りがPTA費という状況になった。