日本の民主政治

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 昭和二十年八月、ポツダム宣言の受諾によって、わが国は連合軍の占領下におかれた。これに基づいてGHQ(連合国総司令部)は、相ついで日本改革の指令を出してきた。非軍事化・民主化政策などであるが、その主要なものは「民主化政策」の項をみて頂きたい。政治的には政治犯の釈放が行われ、政治活動が自由になったことである。

 言論、思想、宗教、結社の自由も保証されたが、これは占領目的に反しない限りという範囲においてのみ認められていた。

 一方、終戦後の社会的混乱の中で、東久邇内閣は、昭和二十年末に総選挙を予定したが、占領政策に抵触して総辞職、代わって幣原内閣が成立した。

 この選挙をめざして政党の結成が相ついだ。主要五政党の結党順序は次のとおりであった(県選管発行『戦後における選挙一五年のあゆみ』)。

  政党名   結党年月      代表者

 日本社会党 二十年十一月二日  片山哲

 日本自由党 二十年十一月九日  鳩山一郎

 日本進歩党 二十年十一月十六日 町田忠治

 日本共産党 二十年十二月一日  徳田球一

 日本協同党 二十年十二月十八日 船田中・黒沢酉蔵

 これによって総選挙への基盤は着々と準備されたが、連合国総司令部は総選挙結果の占領政策への影響をさけるため、昭和二十年十二月十日総選挙延期の指令を出してきた。そして翌年一月四日、軍国主義者の公職追放、超国家主義団体の解散を指令、戦時中主要な公職にあった人たちを、その地位から追放した。

 ついで一月十三日になって三月十五日以降の総選挙を認めたので、四月十日に戦後初の総選挙が行われることになった。

 これより先、昭和二十年十二月十七日、法律第四二号により衆議院議員選挙法の一部改正が行われた。改正の骨子は、

 一 選挙権の年齢を二十歳に、被選挙権の年齢を二十五歳に、それぞれ引き下げた。

 二 女子に選挙権、被選挙権を認めた。

 三 大選挙区制を実施した。すなわち東京都など七都道府県を除く各府県は、各府県の区域を一選挙区とした。

 四 制限連記制がとられた。すなわち本県のように定数一一人以上の選挙区は三人以内の候補者の氏名を投票用紙に記載すべきものとされた。

 五 選挙運動取締規定の徹底的簡素化がはかられた。


 昭和二十一年四月十日に行われた総選挙は、戦後の日本の民主主義を推進するとともに、新憲法制定議会という重要使命を帯びていたので、極めて重要な選挙であった。

 しかし、一般国民は衣食住の不足、物価の高騰などから、戦後という時期にもかかわらず、爆発的な盛り上がりはみられなかった。当時の『千葉新聞』をみると、婦人たちから「選挙権があるのか」といった投書も掲載されており、PR不足から混乱もあった。このため千葉軍政部でも公正な選挙が行われるよう強い関心を示すとともに、県民に対して選挙に関心を持つように要望した。