知事選挙についで行われたのが参議院議員選挙であった。三月二十一日に告示され、投票は四月二十日であった。被選挙権は知事と同じく三〇歳以上とされた。これより先の三月十七日、法律第一七号で「選挙運動の文書図画等の特例に関する法律」が公布され、選挙運動に一定のワクが設けられた。それは次のようなものであった。
一 選挙運動用の文書図面は、一定枚数の無料葉書のほかは、頒布できない。
二 回覧板、看板類の回覧禁止。
三 選挙運動用の文書図画の掲示制限。
四 ポスターの枚数制限、規格、表面記載事項及び掲示箇所制限の法定。
定数は全国区選出議員百名、地方区選出議員一五〇名、計二五〇名と定められたが、そのうち半数が六年、半数は三年の任期とされた。
本県の地方区は任期六年のものが二名、三年のものが二名の計四名の選挙が行われた。立候補者は一二名が届け出たがうち一名が辞退し、一一名によって争われた。その結果の当選者はつぎのとおりであった。
一四万四九六七 小野哲 無所属
八万五一三七 山崎恒 無所属
五万三八四〇 玉屋喜章 日本自由党
五万一七二一 浅井一郎 民主党
このとき出馬した池田友一候補は勅令第一号の覚書に該当していた。
投票率は全国的にみると六〇・九三パーセントで、四月選挙の最低を記録したが、本県はそれより低く全国最低の四七・六パーセントであった。選挙結果について県選挙管理委員会発行の『戦後における選挙一五年のあゆみ』によると、
一 有権者の無関心、これには参議院の性格のあいまいさが大いにあずかっている。この選挙は戦後行われた国会議員選挙で最低の投票率であった。
二 組織をバックとした候補者が最も有利に闘いを進めた。殊に全国区ではこの傾向が強かった。
三 社会党が第一党になった。(全国の地方区、全国区を合わせて)これは労働運動の盛上りの興奮の未ださめやらないうちに選挙が行われたものと考えられる。
四 無所属の当選者が一一一名にも達したこと。これは候補者が政党をバックにしなくても職能団体のバックアップで当選できたこと等によるものである。
とあって、当時の選挙状況と国民の動向の一端をみることができる。本県でも定数四名のうち無所属が二名も当選した。