衆議院議員選挙

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 参議院と相前後して、衆議院議員の選挙が行われた。三月二十一日に告示され、四月二十五日投票が行われた。同選挙については三月三十一日に法律第四三号で衆議院議員選挙法の一部が改正され、両院を通過したので、同日衆議院が解散され、選挙となったものである。改正の骨子は、

 一 大選挙区制限連記制を廃止し、定数三人ないし五人の中選挙区制を採用した。

 二 欠格条項を整理し、選挙権および被選挙権を有しない者の範囲を狭くした。

 三 選管の管理については、行政委員会たる選挙管理委員会があたることになった。

 四 重複立候補を禁止し、推薦届け出での場合には必ず本人の承諾を要するものとし、供託金の額を二千円から五千円に引き上げ、繰り上げ補充は、同点者を除き、当選承諾期間内に限り行うこととし、補欠選挙事由を選挙区内の定数の四分の一の欠員から同一選挙区内の議員が二人に達した場合とした。


 全県一区の大選挙区でなく中選挙区となったので、千葉市は一区となった。このときの立候補者と当選者は次のとおりで定数四名に対し四・二五倍の一七名が立候補した。

 三万四八〇九 成島憲子  民主党

 三万一五六八 吉川兼光  日本社会党

 二万七五八八 多田勇   日本自由党

 二万〇三七八 渋谷雄太郎 日本自由党

 ほかの立候補者は柳沢義男(自)安部正一(社)渡辺善寿(社)斉藤時郎(自)美濃部晴三(共)渡辺長松(民)金子義高(無)高原正高(自)山本力(民)吉田実(無)鈴木隆(民)鈴木績(民)山田村雄(諸)であった。

 戦後初の衆議院議員選挙で婦人議員が当選したのにつづいてまたも婦人議員が当選した。もっとも当選した成島憲子議員は、この選挙前まで衆議院議員であった成島勇議員の夫人で、同議員の公職追放に伴って身代わり出馬したもので、地盤もあったために最高点で当選したわけである。

 それにしても婦人が二度も当選したということは民主化という歴史の流れを示すものであるが、これを最後に一区はもとより、県内で婦人の国会議員は姿を消した。

 また、このときの選挙で労働運動の盛り上がりなどの影響もあって社会党が一四三議席を確保して第一党になった。ついで自由党一三一、民主党一二一、国民協同党(日本協同党が改組)二九、共産党四、諸派二五、無所属一三であった。婦人議員は前回の三九名から一挙に一五名に減っている。

 諸派、無所属の立候補者が前回の三分の一強に減ったことは、各政党とも秩序をとり戻したことの証左であろう。投票率は全国的には参議院選挙を上回り六八パーセントを記録した。投票率がよくなった原因は、大選挙区から中選挙区になったので、候補者がより身近かなものに感じられたためであり、同時に国会の重要性が国民の間に浸透してきた結果であった。