その後の衆議院議員選挙

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 昭和二十三年十月、芦田内閣崩壊後吉田内閣が成立したが、十二月二十三日、不信任案成立とともに国会を解散し、翌一月二十三日に衆議院議員選挙が行われた。これより先、二十三年七月二十九日法律第一九五号により「衆議院議員選挙法の一部改正」が行われた。それによると、

 一 身体障害者に対して代理投票の方法を認め、特別投票管理者のもとでの投票(現在の不在者投票)の事由を法律で規定するとともに、病人、妊婦などのための在宅投票制度を設けた。

 二 立候補の届け出期間を選挙期日前七日までを十日までとした。

 三 供託金の額を五千円から三万円に引き上げ、その没収点も選挙区内の議員定数で有効投票総数を除して得た数の一〇分の一から五分の一に引き上げた。

 四 当選の告知及び告示は、従来選挙長が行っていたものを都道府県の選挙管理委員会が行うものとした。

 五 選挙管理委員会に対し、選挙に関する周知義務と棄権防止の措置を義務づけることとした。


 同じく七月二十九日付法律第一九六号で「選挙運動等の臨時特別に関する法律」によって選挙の公営制度が採用され、立ち合い演説制度、政見放送、経歴放送などが取り入れられた反面、文書図画の頒布制限、自動車の数制限、飲食物の提供及び連呼行為の禁止などが新たに決定された。

 ▽昭和二十四年一月二十三日執行の衆議院選一区当選者=佐久間徹(民主自由党)柳沢義男(同)多田勇(同)渋谷雄太郎(同)

 このとき一区は、民主自由党が四議席を独占し、社会党は一議席もとれなかった。また婦人候補の成島憲子は落選した。

 ▽昭和二十七年十月一日執行の衆議院選一区当選者=吉川兼光(右派社会党)川島正次郎(日本自由党)臼井荘一(同)伊能繁次郎(同)