千葉市会議員の変遷

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 千葉市会議員の選挙は戦時中の昭和十六年三月に任期満了となったが、戦時下のため一年余り繰り延べとなり、十七年五月二十日まで延長された。しかし市は都合で六月一日に選挙を実施した(戦後と比較するため戦時中のものを執筆)。この選挙は、いわゆる翼賛選挙で上からの指示によって大政翼賛会有志による市会議員候補者推薦会を組織し、推薦された候補の当選を推進した。官憲は推薦会を通じて間接的な選挙干渉を行い、潜在的な批判をうけた。

 この推薦会は会長矢野機、会員石川参太、岩田加太郎、市川重平、金山久松、亀田守約、久保福松、児島健爾、菅原弥兵、田野勲功、花岡和夫、古荘四郎彦、藤井惣助、吉田景瑞らで組織された。市議定数三六名に対し推せん候補として、まず二倍の七二名をあげ、結局三六名にしぼり、全員の当選を期した(推せん候補のうち三名辞退)。

 これに対し非推せん候補も出馬、結局七四名で激しい選挙戦を展開した。その結果、当選者は推せん組が二二名、非推せん組が一四名の色分けとなった。この当選者は二十一年六月には任期満了となるわけであるが、この年には改選が行われなかった。市会の『議事録』をみるとそれまでの議員が二十二年四月の新地方自治施行による新しい市議選挙まで議員をつとめていた。

 ただ、昭和十七年六月一日に当選した市議のうち二十二年四月の改選までに死去した人が四人、辞職が二人、失格一人、繰り上げ当選二人ということが『議事録』にのっている。繰り上げ当選者は足立新吾と高橋勝太郎であった。

 二十二年の市議選挙は、四月十日告示、同三十日に投票が行われた。当選市会議員三六名の名簿は「終戦直後の市政」の項に記載してある。当時の詳細な模様は県の図書館にも当時の新聞がないし、市にも資料がないので明らかでない。

 千葉市会議員のうち戦時中議員であった人で、二十二年四月の改選のとき再び議員となった人は、

 鴻崎豊吉、高井純、内山昇、大沢中、白井辰次、斉藤市蔵、本多保、山本政次、植草春治、原田賢三、石塚正二

の一一名で、残る二五名は、全員新顔の人々が当選した。三分の二強が新人によって占められたわけである。しかし国会議員選挙で進出したように婦人議員は千葉市会には姿をみせることはできなかった。

 ついで二十六年の市会議員選挙で再び議員となった人は、わずか一〇人で二五人は新人が当選、カムバック組が一人となっている。このように戦後の第一回、第二回の市会議員の選挙は苦しい社会情勢の変化や公職追放などの関係もあって、新旧の交代が激しかった。

 戦時中以来戦後の二十六年の選挙まで三度連続当選した議員が、内山昇(要町)、鴻崎豊吉(蘇我)、高井純(検見川)の三人だけであったことは、当時の選挙がいかにむずかしかったかということと、公職追放など社会秩序の変化を物語るものであった。

 昭和二十六年四月に行われた市会議員選挙の当選者はつぎのとおりであった。

 和田平武 (院内)  稲生八郎 (畑町)  山本秀一 (新宿)

 渡辺貢  (港町)  石橋光  (検見川) 秋元英一郎(検見川)

 森栄   (検見川) 石田正次 (神明)  石橋芳蔵 (稲毛)

 木村嘉信 (吾妻)  宍倉寛  (本町)  海保不二男(加曽利)

 古川義誉 (稲毛)  松井芳蔵 (港町)  小池徳次郎(寒川)

 越川正一 (長洲)  金杉仂  (仁戸名) 大野義男 (稲毛)

 鈴木宣三 (蘇我)  能勢寿  (園生)  高橋勝太郎(緑町)

 富岡松五郎(本千葉) 内山昇  (要町)  油布幸喜 (汐見丘)

 宍倉四郎 (作草部) 茂手木幸忠(轟町)  白井定一 (蘇我)

 鴻崎豊吉 (蘇我)  高橋洋  (都町)  和田重雄 (原町)

 粂田治助 (蘇我)  清古初四郎(長洲)  市原岩吉 (大宮)

 高井純  (検見川) 鳥飼政次 (千葉寺) 林通康  (栄町)

 昭和二十一年十月十日に発足した千葉市の選挙管理委員会は、設置以後は、市の選挙事務をすべて取り扱うことになった。

 初代委員は渡辺良雄、湯浅泰仁、楠原信一、池田宗七郎の四人で、事務員は一人であった。当初は委員会だけで、事務局が正式に発足したのは三十四年四月一日からであった。

 昭和二十六年の市議選挙は定数三六人に対し一三三人が出馬した。最高点は山本秀一候補の一、五〇一票であった。当選議員の党派別では無所属が三五人、自由党が一人であった。