「敗戦直後の市政」の中でふれているとおり、昭和九年から十一年余にわたって市長の職にあった永井準一郎は、昭和二十一年四月に辞任した。戦時中の指導者としての責任と社会の変動の流れの中で辞任することが当を得ていると判断したようだ。いってみれば新旧交代のムードにあった。もちろん、戦災直後の市政は多事多端であったし、戦災の責任も痛感していたといわれる。
後任は市会推せん制をとることになり、前市長であった加納金助が推され、資格審査のすえ、適格と決まったので、第七代目市長となった。
しかし、昭和二十二年四月から新地方自治法の施行に伴って初めて市会推せん制ではなく、市民の直接投票によって市長を選挙することになり、三月二十一日告示され、四月五日に投票が行われた。これは知事、五市長などと一緒に行われたもので、四月の各種選挙のトップを切って実施された。民選初代市長の選挙にしては投票率はよくなく、五二パーセントの成績であった。市長選は加納金助、八木担、吉原徳太郎の三候補によって争われた。その結果、
二三、一〇四 加納金助 日本自由党
四、六七七 八木担 無所属
三、六三七 吉原徳太郎 無所属
という成績で、前市長の加納金助が当選し、八代目市長となった。現職の強味で加納候補が大差で勝利をおさめた選挙であった。
このあと昭和二十五年四月に、まだ加納市長は任期を一年残していたが、同年六月四日執行の参議院議員選挙の候補に自由党から推されたため辞任、後任の選挙が行われることになった。選挙は五月に行われた。このときの結果は次のとおりで、戦後最も激しい選挙であったとされている。特に各候補がそれぞれ支持層を固めていたので、白熱した選挙戦が展開された。結局県会議員を辞任して出馬した宮内三朗候補が助役三期の実績を買われたのと自由党のバックアップによって当選した。
一四、八六四 宮内三朗 日本自由党
一〇、五九一 多賀芳郎 無所属
五、〇四三 大沢中 無所属
三、八七七 山口尚 無所属
当選後の五月二十一日、臨時市会が開かれたが、席上、宮内市長の述べた就任あいさつを『議会議事録』からあげてみる。
(前略)最近市政に対する世間の批判があり、刷新が叫ばれておるのでございますが、私は市政刷新というものは当事者が市民の心を心として公共の福祉をはかる運営をしていくことにあると存じます。私はあくまでもわが身をつねって市民の痛さを知るという信念に徹し、誠心誠意をもって市政に当たる覚悟でございます。(以下略)
以後宮内市長は連続五期二〇年間市長の職にあったわけであるが、第五回の選挙を除いては楽勝ともいうべき選挙であった。
▽第二期市長選(二十九年五月)
二二、〇九八 宮内三朗 日本自由党
一四、七六二 篠崎長次 日本社会党
一、一一四 内田功六 日本共産党
▽第三期市長選(三十三年四月)
三三、七六一 宮内三朗 日本自由党
五、五五七 安藤一茂 日本共産党
▽第四期市長選(三十七年四月)
三五、四九二 宮内三朗 日本自由党
七、五九七 柴田照治 日本共産党
▽第五期市長選(四十一年四月)
四六、一四四 宮内三朗 日本自由党
二七、四〇三 木原実 日本社会党
五、三二五 須田章 日本共産党
こうして五期にわたる宮内市政によって千葉市政は大躍進をとげたのであった。
政治というより行政に属するが、二十三年七月十五日公布施行された教育委員会法によって同年十月五日に第一回教育委員選挙が行われた。千葉市は県や五大市と歩調を揃えて十一月一日から同委員会を発足させた。