昭和二十二年四月十日に告示され、四月三十日に投票が行われた。千葉市の当選者は吉原鉄治(自由)、宮内三朗(自由)、篠崎長治(社会)、千葉郡からは石崎輝治(自由)、土屋留治(民主)、元吉重成(社会)がそれぞれ当選した。
昭和二十六年四月の選挙では、千葉市からは宮崎清(無)、鈴木長治(自由)、渡辺良雄(民主)、山木善之丞(自由)、千葉郡からは白井博一(自由)、土屋留治(民主)が当選した。この選挙では前議員のうち市長選に出馬した宮内三朗と土屋留治を除いて、全員新人が当選した。また合併などによって千葉市と千葉郡の定数が変わった。
このときの選挙の模様を『千葉新聞』でみると選挙違反のうち買収が四〇パーセント、文書違反が三〇パーセント、戸別訪問が二〇パーセントを占め、選挙違反が大きな批判を浴びた。特に供応と詐欺投票(不在者投票を悪用)のことが問題にされているが、かなり汚い選挙戦が展開されたことが想像される。
しかし保守系の勝因は資金の豊富なことがあげられていた。また都市では新人進出のことが報道されているが、投票率は県平均が七九・四パーセントであった。
昭和三十年四月の選挙は千葉市から足立信義(民主)、渡辺良雄(民主)、篠崎長治(社会)、吉原鉄治(自由)、千葉郡は定数一名となり土屋留治(民主)がそれぞれ当選した。
ついで昭和三十四年の選挙では千葉市から佐久間正夫(無)、鷲見正人(社会)、長島一(社会)、渡辺良雄(自民)、吉原鉄治(自民)、足立信義(自民)が当選し、千葉郡からは土屋留治(自民)が当選した。
昭和三十五年の六月に民主社会党がスタートし、長島一議員ら六議員によって民主社会党県議団が発足した。
昭和三十八年に(千葉市の定数は七名)千葉市で公明政治連盟から初めて県会議員の議席を確保していたが、同連盟は翌年十一月に公明党として発足した。昭和四十二年には千葉郡からの議席(千葉市合併で)はなくなった。また同年の選挙は定数が八名となり、千葉市から初めて共産党の議員が誕生した。