自治体警察の運営

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 この市警察発足のころ、市議会でいろいろ議論されているが当時の様子がよくわかるので、一、二記したいと思う。

 昭和二十三年三月の『議事録』には次のように書かれている。

 長嶋副議長の報告 ①三月に館山で市会議長会が開かれたが、そのさい、現在の警察庁舎は国家警察が使用し、家具、什器も国家警察に帰属するので、新たに、これらを整備すると、ばく大な金がかかるので、これを自治体警察に移譲を希望する。②自治体警察の予算は全額国庫(恒常、臨時たるを問わず)で要望する。③警察官の待遇は、マイナスにならぬよう当局で各市町村と緊密な連絡をとるよう。

 山木善之丞議員要望 警察機能発揮のため乗用車一台を備え付けたいことであります。今警察には乗用車一台、トラック一台、ジープ一台があるのですが、之を国家警察と共用しているので、一朝有事の際、機動的に活動するに、非常に支障がある。現在の犯罪状況におきましては、被害の速報を必要とするのでありますが、之に対する急速な手配が困難であります。従って差し当り一台を備え付け、活動の敏活に資し、一般市民に安心感を与えたい。(以下略)

(原文のまま)

 以上にみられるとおり、市の自治体警察には乗用車はもとより、トラックさえ一台もないので、機動力といえば、自転車ぐらいのものであった。これでは捜査に支障をきたすとして乗用車一台の購入要望となったようである。

 市署発足一年後には機構改革が行われて捜査一課と同二課は一本化されて捜査課となり、また教養課が廃止されて総務課となり、防犯課の分掌事項に大幅にふえていった(『千葉市誌』)。発足当初、捜査二課の業務に戦犯人捜査があげられていたことは、当時の社会情勢の一こまであろう。

 また当時の予算は、警防消防費として昭和二十四年度が五、六三四万一八四〇円、昭和二十五年度が五、六二五万六五九〇円で、消防費を含んでいるとはいうものの、全予算の一四パーセント強を占めて、市予算では教育費についで二位という大きなウエイトを占めていた。

 当時、警察官の正規の比率は、人口五百人に一人という割合であったが、同年の市の人口は一二万七千余であったので、約百人の警察官が不足していたことになる。そのため警察官の日常業務はオーバーワークとなり、一日四~五時間の休憩しかとれない状態であったという。新市域四ヵ所の駐在所にはわずか一名というのも、本署の陣容が強化されたとはいえ、当時の農村地帯はヤミ物資の買い出しなど戦後の混乱時代からすれば、必ずしも安心できるものではなかった。だが、市の財政事情もあって、急に強化もできない要因があった。

 ところで、昭和二十三、四年ごろはまだ敗戦の悲劇がいぜん続いていた。二十四年度の月別犯罪件数(六―七表)をみると、大体毎月の犯罪件数は平均四四〇件、検挙件数は平均三一〇件で、一日平均一四件の犯罪が発生し、そのうち一〇件が検挙された勘定になる。

6―7表 月別犯罪発生件数(昭和24年度)
区別発生検挙検挙人員検挙率
月別
1月41922622953.9
2月37311716931.4
3月33526926280.3
4月45432831672.2
5月58343035973.8
6月44635930780.5
7月45736237279.2
8月43825327557.8
9月34127526080.6
10月56347344884.0
11月31119615163.0
12月55844237379.2
5,2783,7303,52170.7

(『千葉市誌』)

 同年の主要犯罪(六―八表)をみればわかるように、窃盗犯がずば抜けて多く、全犯罪数の半分近くを占めていた。ついで多いのが詐欺及び準詐欺の知能犯であった。悪質な傷害、暴行犯、強盗及び準強盗犯も相当数に達していた。この犯罪傾向は、当時の経済不安からくる生活苦と社会の激しい動きに振り回され、またそれに対処できない良識の乏しさを示すものであった。

6―8表 犯罪の主なものと発生検挙数並びに検挙人員(昭和24年度)
区分発生検挙検挙人員
罪名
住居侵入14139
賭博334099
傷害暴行727588
窃盗2,213635440
強盗・準強盗331719
詐欺・準詐欺206192117
横領809552
恐喝694
文書偽造666
贈収賄323234
公務執行妨害4436
その他の法令違反2,2252,2252,206
4,9243,3433,110

(『千葉市誌』)

 当時、主食の米の配給が一ヵ月五日間しかなかった(昭和二十三年七月市議会の『議事録』)時代であり、元市助役であった渡辺良雄の話によると、子供たちが駐留軍の兵士からチューインガムを貰って食べていたことが目についたということからでもわかるとおり、食生活は貧困であった。防犯課では、毎日のように千葉駅や本千葉駅、蘇我駅に出動してヤミ物資を取り締まることが大きな仕事であった。

 こうした社会を背景に、青少年の凶悪事件が多かったことは、単に社会の不健全さを責めるだけでなく、やむを得ない事情もあったというべきであろう。

 更に昭和二十六年(一九五一)一月から六月までの犯罪統計(六―九表)をみると、窃盗犯はいぜんとして多かった。こうした事件はいつの時代でもつきまとうものであるが、当時は特に多かったように思う。これは生活苦が解消しないことや、不健全娯楽の盛んな世相の反映でもあった。

6―9表 犯罪の主なものと発生並びに検挙件数(昭和26年1~6月)
月別1月2月3月4月5月6月
発・検
罪名発生検挙発生検挙発生検挙発生検挙発生検挙発生検挙
放火5
傷害88665588101077
傷害致死
単純暴行22444511
窃盗148641658426412117085222127269140
強盗殺人
強盗傷人221
強盗・婦女暴行
強盗・準強盗221142125
詐欺・準詐欺1717121988151521352727
恐喝771133556699
その他363613155057131530304645
220136203131336195215130293214362234
その他の法令違反100100153153186186212212308308253253
合計320236356284522381427342601522615487

(『千葉市誌』より)

 一方、放火犯、傷害致死、強盗殺人、強盗傷害、強盗、婦女暴行罪などの凶悪犯が著しく減っており、中には一件も発生をみていない月もあることは、喜ぶべき現象であった。これは一面でようやく人心が安定してきたことや、社会秩序の回復などの結果でもあろうが、他方、千葉市署の機構の整備充実と機能の強化によって治安対策が確立したことも大きな原因とされている。

 犯罪捜査を組織的、科学的に解明できるような方向にあった。特に緻密(ちみつ)な計画のもとにパトロールを実施するなど改正警察法によって自治体警察と国家警察の間で警備と財政の両面にわたって緊密な連絡をとりながら一体になって活動できるようになったためもあって市内の治安状況は一段と良い結果をもたらしつつあった。

 ただ終戦後一貫して青少年の犯罪が増加しつつあることは、当時すでに識者の間で問題とされていたことである。

 この自治体警察の千葉市署も二十九年の警察法の改正によって国家警察と合併し、警察機構は、すべて一本化し、現在の姿になったのである。