戦後の消防は、昭和二十三年(一九四八)三月七日に施行された消防組織法によって常備(設)の消防署と非常備(設)の消防団の二つに分かれた。それまで消防は警察の管轄下にあったが、これを機会に県の総務部地方課に消防係(課となったのは翌年八月)が設けられて指導、監督に当たることになった。しかし、実際には市町村の消防は、直接には市町村長の指揮下にはいることになった。
千葉市は、千葉県内で第一号の常備消防を設置したが、千葉市についで、銚子、市川、船橋、佐原の四市が常備消防をおいた。千葉市の常備消防は、『千葉県消防史』によると、昭和二十三年十一月二十日に設置され、消防長以下計八三人でスタートしたと記されているが、当時の市議会の『議事録』に残っているものとは若干ちがうようである。その模様は後述のとおりであった。
千葉市では発足と同時に市長の直接管理下におかれ、予算も千葉市の予算で賄われることになった。
それまでの千葉市の消防は、戦時中に消防が警防団に改組されて以来、防空の仕事が第一となり、消防業務は二の次にされた。明治二十七年以来三〇年の歴史を誇った消防は、昭和十四年の警防団発足とともに、その歴史の幕を閉じたことになる。
しかし、昭和二十一年五月消防を警察行政から分離することになり、勅令第一八五号をもって警防団を廃止し、新たに消防団令が公布された。これに基づいて警察は警防課を廃止して消防業務を公安課に移した。その後昭和二十一年十二月に消防組織令が制定され、公布された。これによって翌々年三月七日から新しい消防団が発足した。
県庁には消防課がないので、総務部地方課内に消防係を置いて指導に当たった。
千葉市の消防については、前記のように『千葉県消防史』に書かれているが、市議会の『議事録』の資料をみると当時の模様がよくわかる。その中で自治体消防のことが強調されているが、市消防の本格的なスタートは消防法の実施より若干遅れていたことがわかる。
市消防発足当時の模様は、市議会の『議事録』によるとつぎのとおりである。
一 現在職員 消防長一名、司令二名、司令補四名、士長四名、消防士三〇名。
一 消防機構の改革
① 昭和二十三年三月七日、消防組織法により警察より分離独立し、自治体消防となり、一切の消防用務を市に移管執行。
② 昭和二十三年七月二十七日、消防本部を設置し、八月一日より消防法による建築等の事務をも拡張執務。
③ 昭和二十三年十月二十日、消防署設置。
右に伴い消防団の機構、定員の変更を行ない、従来七分団地区の畑町、花園町を独立、第十二分団を設置、定員一、〇五五人とす。
消防本部及消防署を通じ消防職員の定員を左の通り定める。
消防長一名、司令二名、司令補六名、士長四名、消防士三〇名となる。
とあり、『千葉県消防史』の計八六人と大幅に食いちがっている。また市消防局の調査によると職員は二一名、消防自動車は三台しかなかったということであるが、市議会の『議事録』を真実とみたい。また、消防設備の状況についてはつぎのとおり記されている。
一 消防設備等の拡充
① 本年度(注・昭和二十三年)予算を以て速消車一台を購入、消防署に備付
② 市内各学校、市関係建物及進駐軍関係自宅を防備の為、貯水池を直営にて行い、既に千城、都、都賀、園生、検見川の各学校と進駐軍関係住宅の全部を完成。
この設備については、昭和二十五年現在のものが『千葉市誌』にでているので、それをみると次のとおりであるが、消防車のことを速消車といっていることが面白い。
▽自動車ポンプ一五台▽手引きガソリンポンプ一台▽ダットサンポンプ一台、▽腕用ポンプ二二台▽計三九台。
▽貯水池三一五ヵ所▽消火栓五四八ヵ所。
昭和二十五年十二月現在の機構、組織をみると六―三図のようになる。設備関係で自動車ポンプが一五台あったことは、高性能ではなかったものの、かなり充実していたことになる。前述の市警察署には乗用車が一台もなかった時代のことと比べると格段の差があった。
区分 | 消防長 | 司令長 | 司令 | 司令補 | 士長 | 消防士 | 事務員 | 計 |
定員 | 1 | 1 | 1 | 2 | 2 | 2 | ― | 9 |
現在員 | 1 | 消防長兼務 1 | 1 | ― | 1 | 3 | 1 | 7 |
区分 | 司令長 | 司令 | 司令補 | 士長 | 消防士 | 計 |
定員 | 1 | 1 | 4 | 10 | 58 | 74 |
現在員 | ― | 1 | 5 | 8 | 63 | 77 |
市消防発足当時、常備消防署は一ヵ所で、大和橋そばの都川のほとり(飯豊ガソリンスタンドの向い側)にあり、支所は穴川の地理調査所のところに一ヵ所あっただけであった。
市消防の発足した昭和二十三年前半の市内の火災発生状況は六―一〇表のようになっているが、一ヵ月のうち一件ないし二件、多いときで四件ということは、現在の一日と一ヵ月に比べても、現在の方がはるかに多いことになる。
月別 | 戸数 | 棟数 | 坪数 | 損害 |
1月 | 1 | 1 | 0.50 | 40,000円 |
2月 | 4 | 4 | 52.75 | 503,450円 |
3月 | 4 | 1 | 1,111.00 | 9,611,000円 |
4月 | 1 | 1 | 6.00 | 150,000円 |
5月 | 1 | 1 | 27.00 | 210,000円 |
6月 | 2 | 5 | 109.00 | 7,400,000円 |
計 | 13 | 13 | 1,306.25 | 17,914,450円 |
(「市議会への報告」より)
人口が五倍以上になったことを考えても、都市の過密による災害は、急激な増加現象となって現れてきている。
二、三月と火災が多かったわけで、これは今日と同じような形である。更に昭和二十四年の火災発生状況(六―一一表)をみると原因は総数二〇件のうち失火が七件と全体の三分の一強を占めていた。
区分 | 原因別出火数 | 損害額 | 焼失物 | 焼失面積 | |||
月別 | 総 数 | 失 火 | 放 火 | 不 明 | (円) | ||
1月 | 1 | 1 | ― | ― | 27,000 | 山林1 | 1反3畝 |
2月 | 3 | 1 | ― | 2 | 14,125,000 | 校舎1 寄宿舎1 住宅1 物置1 | 952.55坪 |
3月 | 2 | ― | ― | 2 | 285,000 | 物置2 倉庫1 木小屋1 | 28坪 |
4月 | 4 | 1 | ― | 3 | 4,651,000 | 住宅4 店舗1 倉庫1 | 138.25坪 |
5月 | ― | ― | ― | ― | ― | ― | ― |
6月 | ― | ― | ― | ― | ― | ― | ― |
7月 | 1 | ― | ― | 1 | 627,312 | 住宅1 | 31坪 |
8月 | ― | ― | ― | ― | ― | ― | ― |
9月 | ― | ― | ― | ― | ― | ― | ― |
10月 | 4 | 1 | 1 | 2 | 2,545,000 | 旅館1 倉庫1 木小屋1 住宅1 倉庫1 物置2 木小屋1 | 58坪 |
11月 | 4 | 2 | 2 | ― | 135,000 | 41坪 | |
12月 | 1 | 1 | ― | ― | 4,350,000 | 住宅1 工場1 | 151.5坪 |
計 | 20 | 7 | 3 | 10 | 26,745,312 | ― | ― |
(『千葉市統計年鑑』)
千葉市消防の初代消防長は高石慎に、消防署長には篠崎金蔵が就任した。高石消防長は昭和三十一年五月末まで在職し、同年六月一日に千代三郎消防長と交代した。消防署長は昭和二十九年十二月三十一日に江尻清敏と交代した。
また県庁には昭和二十四年八月十九日に消防課が新設され、初代消防課長に華表俊夫が任命された。当時の陣容は課長以下七人であったが、その後、二年ほどで廃止され、再び「係」になった。そして翌々年十月十日、民生部に厚生防災課が設置され、厚生行政の一部に消防行政が加えられた。本格的に消防課が誕生したのは、昭和三十六年四月一日であるが、その後消防防災課に改称された。
千葉市の火災発生状況を更に詳細にみてみると、六―一一表のようになっているが、火災時期は十月から四月までの七ヵ月間、特に十、十一、四月の季節の変わり目が多く、十二月、一月の真冬が少なかったことは現在とあまり変わらない。
昭和二十四年の火災による損害は二、六四七万円に達しているが、同年の都市計画事業費の当初予算が約二、八二二万円であるから、相当多額の資産を火災で失っていることになる。『千葉市誌』では「戦災からようやく立ち上がりつつある千葉市において火災は禁物である」といっているが、当時としては、そのとおりであった。