千葉県内には五〇町歩以上の旧軍用地が、一五地区約五千七百町歩も存在し、うち四分の三が開拓可能と見つもられた。財産税の物納として提供された国有地もある。自作農創設を目的とし、その入植対象者には、復員者、戦災者、海外引揚者を主とするほか、軍用地の急速拡張のため伝来の耕地を失い、零細農に転落した地元農家の増反にあてられた。これは全国的規模をもって、終戦に伴う人口の再配置、食糧問題を解決するために実施された緊急開拓事業の一環でもあった。
二分の一国庫支出による農地開発営団が、機械開墾に主力を注ぎ、ほかに住宅補助、開墾助成費など国からの融資もあり、将来とも自作農として精進しうるかを審査の上、売渡しを行った。昭和二十五年末までに県全域内の純粋入植戸数は三、五七七、平均一町歩から一・五町歩、地元増反は約九千五百戸、平均三反歩である。作付の指導は、まず主穀中心に、麦と甘しょで食糧自給を目ざし、次第に換金作物を導入する。一部余裕の採草地を備える場合、乳牛を入れて多角経営方式を採用した。本市域の場合、下志津原の外縁地域にあたり、六―一四~一六表でみるような開拓組合が成立、酪農を推進した。表中にみる鹿放ケ丘は、四街道町に属するが、昭和三十三年から経営合理化を目ざして、多頭・専業化を進め、乳質改善を共励した結果、昭和三十七年農林大臣賞、四十年には朝日農業賞を受ける程に躍進した。開拓事業を始めてから四分の一世紀にまたがる『開拓誌』が編集刊行されている。
開拓組合名称 | 総面積 (可耕地面積)(町歩) | 昭和20年戸数 | 昭和24年末戸数 | 組合構成 | 備考 |
大日 | 570 | 350 | 245 | 主として野戦重砲学校の復員者,千葉出身の内原訓練所生 | 始め共同,21年末から個人経営化 |
(510) | |||||
鹿放ケ丘 | 250 | 154 | 130 | 千葉県以外の内原訓練所関係者 | 始め全協同,24年10月から地区に分化 |
(150) | |||||
長沼 | 192 | 93 | 80 | 戦車学校,防空学校,捷部隊の復員者が主体 | 曙,池の辺,千幸,千葉の四組合23年合併 |
(150) | |||||
千種 | 140 | 79 | 59 | 主として,禁衛府農場雇用者 | 始め共同して酪農を目ざした。23年より個人経営 |
(75) | |||||
山王 | 143 | 102 | 70 | 下志津飛行部隊関係者 | 技術者多く,半工半農を営むもの多し |
(77) | |||||
天台 | 71 | 44 | 42 | 歩兵学校関係復員者 | 始め共同,22年頃から個人経営 |
(67) | |||||
天台新生 | 12 | 9 | 昭和24年,天台組合より分離,共同・個人を併用経営 | ||
(7) | |||||
上志津 | 68 | 40 | 37 | 陸軍航空本部関係及び岩井紙会社の計画入植 | 始めより個人経営で出発 |
(49) | |||||
畦田台 | 41 | 21 | 13 | 農林省あっ旋による | 始め共同,酪農を目的とした |
(19) | |||||
同愛 | 38 | 24 | 15 | 傷夷軍人会のあっ旋による | 始め共同,のち個人に移行 |
(22) |
(『千葉県農地制度史(下)』)
導入年度 | 地区名称 | 飼料作付面積 (町歩) | 放牧採草地面積 (町歩) | 導入時の乳牛頭数 | 昭和26年度頭数 | 昭和28年度頭数 | 昭和30年度頭数 |
23 | 千種 | 17 | 45 | 23 | 36 | 64 | 99 |
24 | 長沼 | 20 | 118 | 16 | 30 | 64 | 94 |
25 | 大日 | 42 | 110 | 31 | 38 | 57 | 87 |
25 | 天台 | 3 | 10 | 8 | 10 | 11 | 6 |
25 | 山王 | 9 | 17 | 9 | 8 | 14 | 20 |
(『開拓十年史』昭和31年12月刊 千葉県農林部)
昭和20年設立 | 昭和23年設立 | |||
原町 | 更科町・御殿町・大井戸町 | |||
平川町(滑空場跡) | 佐和町 | |||
昭和21年設立 | 昭和27年設立 | |||
横戸町 | 横戸町 | |||
若松町 | ||||
大木戸町 | ||||
若松町 |
(『開拓十年史』昭和31年12月刊 千葉県農林部)
下志津原の軍用地としての買収は、明治十六年(一八八三)、もと佐倉藩調練場に、砲兵学校が開設されたことから始まる。明治三十二年に野砲兵連隊、四十一年に鉄道学校、大正元年(一九一二)に歩兵学校、大正末期に飛行学校が設置された。そのつど必要に応じ、現四街道駅を起点に、一~二キロメートル幅、延長五キロメートルに及ぶ三本の放射状ベルト型に、買収が進んだ。
この原は南西側の東京湾と、北東は印旛沼周辺斜面との分水嶺に位置し、幅広い台地原形面がとり残されている。海抜二〇~四〇メートルに及ぶ台地面には、平地林と原野が広がり、畑作を主とする農村が点在していた。特に小深(こぶけ)は、佐倉方面から登戸浦に通ずる駄馬交通の中継宿で、商家を含め四十余戸が栄えていた。船橋より分れて東金に通ずる御成街道に沿い、近世初期、武蔵国からの移民により開発された。大日山は、家康の鷹狩地でもあったから、権現社を祀り、付近は杉と松の深林であった。ローム層の厚い堆積は栄養分が乏しく、用水にも恵まれず、乾燥に強い粟とさつまいもが安全作物であったろう。「原の粟喰い」「六方の粟飯」と近隣から冷笑され、付近農民でこの地に居を構えるものは少なかった。幕末のころ、宇那谷の人、松戸絞兵衛が開田に力を尽くしたので、わずかに米がとれるようになった。
軽しょうなローム土壌を豊かにするには、堆肥と豆科などの緑肥栽培が有効である。堆肥を得るには有畜農化が欠かせないし、養鶏による燐肥の施用も必要であった。ながい間踏み固められた土壌を掘り起こすには、機械(トラタター)が有利である。これらの前提条件から協同化が進められた。
鹿放ケ丘では昭和二十四年以来、農林省と千葉県農試などの協力、委嘱を受けなどし、飼料作物をとり入れた輪作試験を続けて注目されていた。
長沼組合に統合された千幸組合は、小中台町にあった高射砲陣地と旧防空学校敷地六町歩程を、七戸で耕作していた。高射砲の「高」を「幸」に転化して名称としたものである。今は住宅地に変わり昔日のおもかげはない。
同愛組合は、現在の愛生町の草分けであった。軍用地に向かって侵食しようとする谷の前面に、微低地を見つけ、昭和二十二年、政府融資による七坪の家を自力で築いた。同組合の血のにじむ開拓史は、昭和二十八年に刊行された『千葉市誌』に詳述されている。
天台組合は、作草部にあった歩兵学校校舎に居住し、同校演習場を開墾した。その名の由来は古墳「天覧台」に基づいたという。県営スポーツセンターは、天台組合から昭和三十五~六年にかけて買収したもので、赤松林とすすきの原、一部に県営のけやき苗圃があった。坪当たり二千円と伝えられる。もと組合長桜井強二の綴る『開拓小史』により、経緯をたどってみたい。
開拓のくわ入れ式は、終戦の年の十月二十一日であった。土地は農林省、建物などは大蔵省に移管されたが、一時借用を認められた形で、旧歩兵学校の将校、下士官、軍属などがまとまって入植したものである。その後、昭和二十四年に土地の払下げが進行した。払下げをめぐり、立木の帰属問題や、経営の協同化などの問題で一派が分離、「新生天台」を名乗ることになった。
入植当時は全く現金がなく、たまたま農地開発営団が県の依頼を受けて開拓を請け負い、組合員は労力を提供して、一日当たり男二円の労賃(女は一円五〇銭)、月二十二日位の資金で生活を支えた。当時は配給食糧も一日わずか千五百カロリー程度であったし、農具も満足にえられず、その苦闘ぶりは想像を絶しよう。昭和二十二年六月、営団は閉鎖され、代わって組合が結成された。昭和二十一年五月初めて野菜を出荷、大根一七貫、代価九二円を得た。食糧として馬鈴しょを作ったが、このころは盗掘がひんぱんで、夜間見張りをしたという。
昭和二十一年七月、開拓よりも既成耕地の営農に重点をおくこととし、共同作業の開拓は週二日、残り五日は各個作業と、割振りを逆転することにした模様で、次第に初めの協同から、個人経営に切り替えられた。昭和二十五年九月、国の融資を得て加工作業を行った。精米、精麦、製粉などに一五名が共同参加した。このとき、氏神の弥栄神社祭礼とともに、N・H・Kの電波に乗り、全国に知名された。
昭和三十年ころから、社会の時流により農業以外に現金収入の道をとるものが増え、農業を続けることが苦しくなり始めた。着古した軍服姿から背広を新調する時代となった。農業を続けられない失格者を整理、新たに県開拓青年隊訓練生一四名を迎え、体質改善をした。
十一月には、開拓十周年記念県下開拓農産物共進会で、二等に落花生、三等に大根、白菜、堆肥づくりを入選させた。
昭和三十二年十一月、無電燈解消。償還業務最優秀組合として、東京農地事務局長より表彰された。前述のスポーツ・センター用地として買収が進められた昭和三十六年には、全面同意三一戸、反対五戸、一部不賛成三戸、保留一戸という状況であったが、住宅地化の波に抗しきれず、やっかみと非難、人心の冷たさを感じながら土地を手離し、住宅地化した。
昭和四十年十一月、農業協同組合法第九五条第二項に触れ、県知事より解散を命令された。昭和四十二年十月、財産整理を終え、解散式を挙行した。その他の開拓組合も、同じ轍を踏んだものと思われる。