代用食の王、甘しょ

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 米の代替供出として割り当てられた甘しょは、戦後の代用食時代の花形であった。千葉郡市における供出量は、基礎生産高に対して昭和二十二年六二パーセント、翌二十三年には七〇パーセントを越した。昭和二十三年四月二十八日、青木昆陽の試植地に近い幕張小学校で、県経済復興会議が中心となり、県農業会主催による「いも祭」がもたれ、食糧庁長官、農林大臣も参列した。

 食糧難が緩和された昭和二十五年から統制解除となり、食用として出荷される比率が二三パーセントから、昭和三十年八パーセント、昭和三十五年四パーセントと低下するのに反比例して、でん粉原料用が増加していった。昭和二十五年四五パーセントから、昭和三十年六九パーセント、昭和三十五年六五パーセントになった。東京市場年間平均価格が昭和三十年、キログラム当たり一九円、農家庭先渡し価格は一二円程度であったのに対し、原料用の場合、四分の一位であったから、量産と歩留りのよい品質の両者を兼備する品種を工夫する必要があった。品種別作付比率を参考にして県農産課で刊行した『千葉県甘しょ発展誌』による解説を引用しよう。

 沖縄一〇〇号は昭和九年に導入、昭和十一年奨励品種とする。多収の上アルコール用として良質、早生で気象変化にも適応性があるという。農林一号は昭和十七年に命名、奨励された兼用品種で、従来のものより三~四割の増収になった。千葉郡甘しょの最盛期は昭和十一年で、四、三三九町歩(反当一四六六キログラム)を記録している。昭和二十年には四、〇二八町歩(一七五一)、昭和二十五年三、八二五町歩から昭和三十年には二、五〇二町歩に急減、昭和三十五年には二、〇二〇町歩、昭和四十年には僅か五八七町歩に縮少した。反当収量は昭和四十年二、三一〇キログラムであるから、二〇年間に三割強の増収となっている。しかし、外国からの輸入でん粉の増加と、園芸農業の発達により、永年の輝やかしい地位を追われることになった。