統制から解放され作付が自由になった。農地改革は自作農を創設した。前項でみたように、畑地の卓越する本地域の夏作六五パーセントを占めた甘しょが漸減し、昭和初期にみられた換金作物が、続々と出現する復興期は昭和二十年代後半であった。
昭和二十五~二十八年にまたがる朝鮮動乱ブームで、工業生産は倍増したが、農業生産は年による変動がある上、統制撤廃後はヤミ値も下落し、輸入も伸びてきたことから、不況のまま安定した経済時代を迎えた。工業製品の値上りに対応できず、農家経済は赤字に転落、これではならじというわけで、都市の消費構造に適合した果実、野菜、畜産に切替えていかねばならぬが、零細経営の壁に突き当たって、技術改良によるコスト・ダウンが期待できず、農村の相対的地位が低下、沈滞気味であった。やがて農業基本法の成立、構造改善事業が展開する前夜が迫っていた。
これまでの経済指標の表示にならい、『昭和二十七年度県統計書』により、千葉郡市の、全県における地位を六―一八表に掲げる。全般的な停滞傾向をおおうべくもない。
作物名 | 作付面積(町歩) | 上位三地区および旧市域の作付面積(町歩) | 県下全域に対する比 | |||||||
% | ||||||||||
陸稲 | 348 | 53 | 50 | 48 | 104 | 9.2 | ||||
とうもろこし | 186 | 41 | 31 | 26 | 44 | 6.6 | ||||
らっかせい | 713 | 185 | 125 | 109 | 125 | 11.3 | ||||
里いも | 146 | 13 | 12 | 12 | 57 | 6.0 | ||||
トマト | 30 | 7 | 2 | 2 | 13 | 6.5 | ||||
スイカ | 90 | 14 | 12 | 9 | 39 | 8.1 | ||||
さつまいも | 2331 | 388 | 340 | 164 | 958 | 9.1 | ||||
なたね | 315 | 74 | 34 | 33 | 78 | 9.6 | ||||
じゃがいも | 180 | 31 | 20 | 17 | 73 | 6.5 | ||||
ビール麦 | 125 | 57 | 28 | 22 | 2 | 6.6 | ||||
小麦 | 2146 | 341 | 271 | 230 | 600 | 7.3 | ||||
ほうれん草 | 75 | 12 | 4 | 5 | 50 | 6.7 | ||||
キュウリ | 66 | 10 | 7 | 5 | 33 | 5.8 | ||||
にんじん | 46 | 7 | 4 | 2 | 25 | 5.0 | ||||
役・肉牛頭数 | 1281 | 183 | 146 | 109 | 563 | 2.7 | ||||
乳牛〃 | 556 | 168 | 117 | 63 | 131 | 4.5 | ||||
馬〃 | 1041 | 175 | 128 | 116 | 295 | 6.4 | ||||
豚〃 | 719 | 200 | 118 | 62 | 170 | 2.3 |
(『昭和27年度県統計書』)
陸稲栽培面積三四八町歩は県全域の九・二パーセントに当たり、出色である。主産地は若松町など東部台地、草野方面の西部台地で、自給用主食として作付されていた。甘しょも九・一パーセントで目だって高かった。工業原料としての菜種が依然として大きい比率を占めたのは、土気・誉田・白井地区で、市場への遠隔性が、その成立条件と考えられた。
国電沿いの西郊台地の畑作は、三毛作などの高度利用がみられた。トマト―結球山東菜―早生キャベツ、あるいはキュウリ―ネギ―京菜の組合わせが工夫された。冬の季節風と霜を予防するため、竹の枝や、よしずを立てた景観は、検見川から幕張付近独特のものであった。
果樹は誉田・更科・白井方面に散在して、カキ千本、ウメ七百本位を数えるが問題にならず、栗だけが約九パーセントの占有率(六五七本)を示して特産になっていた。