復興期の商業の動向

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 千葉市の商業が復興したということは、戦前の商業の最盛期に達したということである。千葉市の商業は戦時中の「小売業整備要綱」によって、多くの商店は廃業した。必要最小限度に残された商店は、呉服織物店が三四、洋服店が一二、婦人子供服店が三一、燃料店が三一、食料品店が一四六、家庭雑貨店が一二六、酒店が七九、合計四五九店であった。昭和二十年七月の千葉市の戦災によって、中心商店街や東京街道(富士見町)の商店街と佐倉街道の商店街は火災を受けた。終戦のころ千葉市に残っていた商店は、「小売業整備要綱」によって残った四五九店のうち、一三七店のみであった。終戦後、「小売業整備要綱」の規制はなくなり、焼野原の市街地に商店が続々と出現した。昭和二十年に四一店、二十一年に二四九店、二十二年に二五七店、二十三年に三六五店、二十四年に二四五店、二十五年に四三〇店、二十六年に七二四店と増加ぶりは目ざましかった。昭和二十六年度の商業調査によれば、商店数は二、六八五店(飲食店三七〇を含む)に達していた。戦後に戦前の最盛期であった昭和十五年の商店数の二、六六九店をこえたのは、昭和二十六年であった。このときは、千葉市の戸数は約二万八千戸、人口は約一三万三千であり、戦前の最大の昭和十九年の戸数二万二千戸、人口の一一万人をこしていた。したがって千葉市の商業の復興期とは昭和二十~同二十六年までを指すことになる。

 戦災の一周年目にあたる昭和二十一年八月に、中心商店街には商店がすでに三百店をこえたので、千葉市の復興祭が一週間も開かれた。商店ごとに復興ちょうちんをかかげ、装飾トラックを先頭に広告行列が市内をねり歩き、三日間にわたって旧吾妻百貨店跡で演芸大会が開かれた。その日には千葉市主催の戦災合同慰霊祭が開かれていた。しかし昭和二十~二十三年ころは商店経営が苦しかった。インフレーションの進行と商品の品薄と統制が商業復興期の大難関であった。いまだ工業生産が原料不足で発展できず、商品一般が品薄の時期であり、食料・衣類・その他の生活必要品が統制されていた。その上にインフレーションが激しく生活物資は値上がりをし、消費者の収入が低いので、購買力は急激に低下した。商店の売上高が小さくなって赤字経営がつづいた。消費者は食生活のために新品を買いいれることを控えて、質屋や古着商に所有品を売って食糧を購入した。しかしこの「竹の子生活」も底をついて、赤字知らずといわれた質屋や古着屋も経営困難におちいった。商業経営に第二の難関が現われた。昭和二十四年末に食糧事情がよくなったが、インフレーションを抑制するために、デスインフレーションの政策が実行された。企業整備や人員整理をする中小企業がでてきて失業者が多くなり、産業資金の貸出制限がきびしくなったので、金づまりと生産減退となった。このときにさまざまな商業振興策がとられた。商品展示会や名産品創作展を開いたり、店頭装飾競技会などを行った。また主婦の友会や物価監視委員会と協同して、物価引下げ運動を行った。一方金づまりを打開するために、千葉県信用保証協会を創立して中小商工業者へ金融の便をはかったりした。このように経済の激動期をのりこえて、千葉市の商業が復興した。