中心商店街の西方移動

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 戦災をうけて灰燼(かいじん)に帰した中心商店街は六年も経た昭和二十六年にはほぼ復興したといえる状態になった。この復興した中心商店街は戦前の中心商店街と同じものではなく、変化はなお続く要因をはらみながら流動的な情勢であった。中心商店街の業種構成をみれば戦前とほぼ同じであった。卸売業の勢力が弱く、小売業中心の商店街であったことも戦前のと変わらなかった。しかし商店経営者が大幅に入れ替わったことが戦前と大きく変わった点であった。このほかに戦前の中心商店街と復興した中心商店街とは、全く変わった点に注目する必要がある。この変わった点は当時には芽生えの状態であったが、その後ますます拡大されてその対応策が今日の中心商店街の最大の課題となっている。それは中心商店街が西方へ移動を始めたということである。中心商店街の西方移動はこの復興した商店街の中に発生した問題であった。

 戦前の中心商店街は本町通りと市場町通りが主軸であり、これに平行する吾妻町通りが中心商店街の拡大過程に商業勢力を伸ばしてきた。この南北に走る商店街は近世から明治・大正・昭和前期を通じて常に中心商店街の地位を占めてきた。国鉄千葉駅がおかれると、南北につらなる二本の街路に沿って商店街が延長された。また大正十年に京成電鉄の京成千葉駅がおかれると、その出入口を中心として通町商店街(銀座通り)と栄町商店街が形成され、第三番目の南北につらなる商店街となった。しかし栄町通りと通町通りの商店街は、昭和前期においては中心商店街の中で場末の商店街であって、本町通りや吾妻町通りには比べものにならなかった。

 復興した中心商店街は、その形態からみて戦前の中心商店街とは全く変わっていた。本町通りと市場町通りは中心商店街ではなくなった。これに代わって栄町通りと通町通りの商店街が中心商店街の首位を占め、吾妻町通りの商店街をしのぐ勢力を持つようになった。市内交通量からみても栄町通りと通町通りはもっとも多くなった。通町通りは「千葉銀座」の名を与えられた。中心商店街は西方へ移動した。この主因は栄町通りとこれにつづく通町通りには郊外や周辺町村から千葉市の市街に出入する人口の呑吐口があったことである。国鉄千葉駅が栄町通りの北端にあり、栄町通りと通町通りの接点に京成千葉駅があった。戦災によってかなりの市街地人口は京成電鉄の沿線に移動したので、京成千葉駅の乗降客が増加した。中心商店街の西方移動の主因は都市計画にもあった。復興都市計画において、街路計画は主な街路の拡幅と区画整理によって、戦前と全く面目を一新するものであった。現在の中心市街の街路は復興都市計画によるものである。かつて市街々路は幅がせまく、自動車の交通には全く不便であった。街路に歩道と車道が区別され、区画整然とした街路になった。このとき本町通りは幅三六メートルの街路に拡幅されて商店街の街路としてはあまりにも幅が広がったことが、小売店街の性格を消滅させた。また復興都市計画の街路計画は、市街地の主な街路が南北方向に昔から走っていたことに対して、東西方向にも主な街路を造成すべく、銀行通りと本千葉駅通りを拡幅した。復興都市計画において計画されている国鉄千葉駅と本千葉駅の移転と京成千葉駅の移転が、昭和三十五年になって完成した。このときまでは中心商店街の移動は目立たなかった。駅の移転が行われ、またそのころから始まった東京資本による大型店・百貨店の進出が現われると、中心商店街の西方移動が激化した。しかし昭和二十六年ころの復興した中心商店街は、昭和三十五、六年ころまでの一〇年間に、栄町通りと通町通りが中心となり、吾妻町通りの南北方向の商店街と銀行通りと本千葉駅通りで囲まれる範囲が、千葉市の中心市街地として栄えた。このころから本千葉駅通りが「中央銀座通り」といわれるようになってきた。

復興した商店街(銀座通り)
復興した商店街(吾妻町)