新しい都市像

80 ~81 / 546ページ

 戦後の千葉市は新しい都市像をうちたててその建設につとめた。

 戦前の千葉市は、県政の中心、商人の町、学校の町、軍隊の町、鉄道交通の中心などといわれた。総じて戦前の千葉市は消費都市であった。また千葉市の地位は関東地方の片すみにある田舎町であった。戦後の千葉市は飛躍に飛躍を重ねて目を見はる発展を続けている。戦前からの都市機能の大部分をうけついでいるが、新しくつけ加わった都市機能が戦後の千葉市の都市的発展を大きくおしすすめた。この新しい都市機能は大工業都市、大港湾都市、大住宅都市であった。今日の千葉市の地位はもはや関東地方の片すみにある都市ではない。世界の経済大国としての日本の心臓部をつくる首都圏の東の副都心、巨大な生産都市、日本第三位(昭和四十八年)の港勢を示す大港湾都市である。

 戦前の千葉市と戦後の千葉市ではこのような違いがあり、この画期的な発展の出発点は、都市づくりでは復興都市計画であり、産業的には工業開発であり、人口増加からみれば東京通勤者の大量流入である。これらの発達要因による千葉市の膨張は、あまりにも急速であり、激烈であり、都市の膨張を抑制する対策すら必要であると考えられている。千葉市の発展の出発点にうちたてられた新しいビジョンがわずか二十数年間にこのような現象となったことは驚くよりほかはない。この新しいビジョンを打ちたてた時から、ただちに千葉市の都市的発展が始まったものではない。昭和二十年代に立てられた新しいビジョンが具体的に出現しはじめたのは昭和三十年代であった。新しいビジョンが具体化できたのは、それを可能ならしめる背景が熟したときの政治的決断によるものであった。日本経済が敗戦によるどん底から上昇しはじめたのは昭和二十六年ころからであり、千葉市の産業・経済も復興が終わって戦前水準を越えたのは昭和二十六年のころであった。新しいビジョンは昭和二十一年の復興都市計画の都市像にすでに打ちだされていた。その都市像は、千葉市が県の政治・経済・学術・文化の中心であり、更に首都圏の衛星都市、東京湾岸の工業都市、水陸交通の要地として、その都市人口の規模は一四~二〇万人としていた。人口規模は戦災直後であったから小さく考えられたが、その都市機能は現在でもほぼ同じであり、ただその都市機能の一つ一つが巨大に発達しただけである。東京湾岸の工業都市という工業開発は昭和二十六年からの巨大工場の進出や昭和三十年からの内陸工業団地の造成である。この東京湾岸の工業開発すなわち臨海工業地帯の造成に伴って千葉港の造成が始まった。首都圏の衛星都市として東京通勤者の住宅都市という性格が強まりはじめるのは昭和三十年ころからであり、今後は更に激しくなる。この臨海工業地帯の造成と住宅団地の受け入れには、千葉市の政治的決断が必要であった。この政治的決断は臨海工業地帯と住宅団地を受け入れたならば、千葉市によきにつけ、あしきにつけ、さまざまの影響が大きいにもかかわらず、あえてこれらの受け入れをするということではなかった。当時の政治的決断とは臨海工業地帯の造成といっても工場が進出してくるか、また住宅団地を造成しても入居者が充分にあるかということについて、明確な判断が容易でなかった時期に、これを実行したことであった。したがって巨大企業を誘致するために、用地の無償提供や税の減免などの特典を与え、巨大企業の誘致を確実にする必要があった。しかし巨大企業の進出も住宅団地の造成も、なるべくしてなったということができる歴史的背景と都市化の必然的傾向があった。