京葉工業地帯の前史としての千葉臨海地帯の計画

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 千葉市の戦災復興にあたって、将来工業都市になるとは千葉県も千葉市も考えていなかった。復興都市計画の都市像が決定されていなかった昭和二十年十二月二十五日の『東京毎日新聞』が「復興千葉市の将来」に「工業都市か学園都市か」と見出しをつけて次のように報じている。

 千葉市を工業都市にするかどうかについては、地元の声としては工業都市の発展余地はないと見ている。これに対して東京都では千葉市を日用必需品並に食料品加工などの一部の工業都市にしたい意向があり、更に県でも検討することになっている。学園都市に関しては東京都近県を総括的ににらみあわせた上であるいは大学の新設が行われるものと見られる。復興千葉市の将来には期待されるものがある。

 復興都市計画はこの翌年の昭和二十一年に決定され、その都市像の中に東京湾岸の工業都市という性格をとりいれた。しかし都市計画の用途地域の工業地区についてみれば、千葉市の工業地区は南方工業地区を寒川埋立地九〇万坪(旧日立製作所跡)とし、北方工業地区を旧兵器廠跡、旧気球隊跡とし、東方工業地区を稲毛、検見川とした。この工業地区は新たに内陸工業地を打ちだしたが、臨海工業地帯という考え方ではなく、寒川海岸の埋立地を利用するという戦前の工業用地の利用を復活したものであった。したがって京葉臨海工業地帯の造成という新しいビジョンを打ちだしたものではなかった。東京湾岸の埋立計画は戦前においてすでに提起されていた。一つは農林省の「昭和放水路計画」であり、戦後の「印旛沼・手賀沼疎水路工事による埋立計画」や「東京湾干拓計画案」などであり、農業サイドから治水、利水や干拓による耕地の造成などの目的のための埋立計画があった。他の一つは昭和十五年の内務省土木会議の港湾部会の「臨海工業地帯造成方針に関する件」や戦後の運輸省第二港湾建設部の「内湾埋立試案」などであり、工業・港湾サイドからの埋立計画であった。

 昭和放水路や印旛沼・手賀沼疎水路の計画は利根川の治水問題であった。利根川の治水工事は河川法が明治二十九年(一八九六)に制定されてから、水害対策として実施され、昭和五年(一九三〇)に竣工式をあげた。しかし昭和十年、同十三年に大水害が発生したので根本的対策として昭和放水路計画が立てられた。この計画は利根川下流の湖北村(現我孫子市)から洪水量のうち毎秒二千三百立方メートルを分流し、船橋市地先で東京湾に毎秒四千三百立方メートルの溢水を排水する放水路の造成であった。昭和放水路は延長二九キロ、その掘さく土量は七千四百万立方メートルであり、この土量で東京湾岸に埋立地を造成しようとした。昭和放水路の工事は、昭和十四年に着工し、内務省直轄工事の五カ年事業としたが、第二次大戦のために昭和二十年に工事を中止した。昭和二十二年カスリン台風で利根川沿岸に大水害が発生した。これを契機として、建設省が昭和二十四年に印旛沼・手賀沼疎水路計画を立てた。この計画は湖北村から千葉市検見川に至る疎水路で、利根川放水路といい、利根川の洪水を毎秒三千立方メートル放流し、その掘さく土量は七千万立方メートルに達する。運輸省第二港湾建設部はこの掘さく土量をもって千葉市の検見川、幕張と津田沼町(習志野市)の地先海面に約千ヘクタールの埋立地造成計画を立てた。この計画は地元住民と千葉県の反対で全く進行しなかった。しかし、昭和二十二年から戦後の食糧増産計画の緊急開拓事業による印旛沼干拓が行われ、そのために印旛沼疎水路が掘さくされ、その土量によって千葉市幕張に埋立地が一五万坪も造成された。この印旛沼疎水路は昭和三十一年以降であり、埋立は同三十九年に完成して工業用地となった。

 工業・港湾サイドによる東京湾岸の埋立計画は昭和十五年の内務省土木会議の計画がある。これは満州事変当時から重化学工業を発達させるために全国的規模のもとで促進された。

 この臨海工業地帯の造成は、千葉臨海(一、一六七万平方メートル)を最大とし、広島湾臨海(四三五万平方メートル)、宇部臨海(四三四万平方メートル)や青森県の八戸、三重県の四日市、衣ケ浦、山口県の岩国、徳山などに計画された。このように今日の京葉臨海工業地帯の前史に千葉臨海地帯の計画があった。千葉臨海地帯計画とは、江戸川左岸から市原市五井に至る海岸の埋立で、臨海工業地と工業港を造成する計画であった。またその前面に京葉運河を開さくすることであった。この千葉臨海地帯計画は、すでに昭和十二~二十年の事業期間として川崎市の埋立事業と東京都の埋立事業が行われていたので、東京湾の西岸から東岸の千葉県側にまで延長したものであった。この千葉臨海地帯計画は、千葉市寒川海岸に六〇万坪、市原市の養老川右岸に一〇万坪などが造成されたが、戦時中に工事は中止となった。

海面埋立