新しいビジョンとしての京葉臨海工業地帯の造成計画

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 千葉市の新しいビジョンの京葉臨海工業地帯とは戦前の千葉臨海地帯計画の復活であった。これは政府の「東京湾地域」の指定であった。東京湾地域とは政府の自立経済計画(昭和二十五年作成)において、東京周辺一帯に大工業地帯を造成し、電源開発をおし進め、工業生産を発展させ、すでに工業開発が飽和状態になった東京・川崎・横浜の京浜工業地帯への工場集中を緩和し、都市機能を配置、分散させ、人口の過度集中を防ぎ、東京湾岸に近代的工業地帯を造成しようとする計画であった。この「東京湾調査地域」の指定は昭和二十八年一月に閣議決定された。政府による東京湾調査地域はすでに昭和二十五年の自立経済計画の中に盛られていたが、これを具体的に一歩前進させたのは、昭和二十六年十一月二十七日に開催された千葉県総合開発審議会であった。この審議会は千葉県が計画した県総合開発計画を審議し、昭和二十七年十二月に中間報告を提出した。そのとき審議会は七つの問題を検討した。

 (一) 天然ガスの開発利用

 (二) 千葉県の鉄道計画

 (三) 千葉県の道路計画

 (四) 工業用水

 (五) 京葉工業地帯の造成に当たり、内湾の埋立及び港湾計画とこれに伴う内湾浅海漁業の問題

 (六) 利根川下流の観光と舟運

 (七) 利根放水路


 この審議会にいくつかの分科会が設置されたが、京葉臨海工業地帯の造成については、千葉市長宮内三郎を会長とする「京葉分科会」がおかれた。京葉分科会は京葉臨海工業地帯造成のための根幹をなす内湾埋立による工業地帯造成計画と港湾計画を検討し、その工業都市としての性格、規模とその限界が考えられた。京葉分科会の『中間報告』(昭和二十七年十二月)にこれらの問題点について次のように報告されている。

 (一) 首都の人口疎散のための計画地域となり、都市通勤者の収容を考慮すると共に、県内人口雇用の適正化をはかるため、この地帯に振興せらるべき第二次産業へ県内農村の二・三男層及びその他の潜在失業者の吸収をはからねばならないこと、又反面、工業地帯の発展と共に多量の工業労働力をこの地帯に必要とすること等の人口問題。

 (二) 千葉港・船橋港及び木更津港の港湾機能の充実、常総幹線鉄道の開通、東京方面への鉄道輸送合理化等の交通機関の整備は、国外及び常磐地方等の国内原料生産地及び大消費地への物資の交流を便ならしめ、京葉地帯の工業生産基地としての発展の規模を、国内のみならず、国際的にまで期待しうること等の物資生産流通上の問題点。

 (三) 国の経済自立計画において、工鉱生産指数を昭和九~十一年を一〇〇として、昭和三十五年に二四〇~二五〇にあげようとしているが、このために全国で千五百万坪の新規工業生産基地を造成することが必要とされ、このうち東京内湾地帯で少なくても二三〇~二四〇万坪の工業地帯を造成することが期待されている。また県政の重要施策として、県産業構造の近代化のために、工業生産力の振興が京葉工業地帯の造成を内容としてとりあげられている。国政並びに県政上の工業発展の要請、更に京葉地帯内の千葉市周辺にすでに近代的大製鉄所の進出をみ、これを中心として、この地区の重工業地帯としての発展が期待でき、また船橋市・市川市などの東京都隣接地区は消費財工業及び軽工業地帯として、千葉市・船橋市内の一帯に形成される都市地帯は住宅地レクリエーション地としての機能をもつ外、一般商業軽工業地帯として発展するものと予想されること等の工業発展の見通し上の問題。


 これらの根本問題を審議した結果、京葉臨海工業地帯は新しいビジョンとして形成された。京葉臨海工業地帯の範囲は、船橋市付近から養老川河口付近(市原市)までとすること、埋立地は一千万坪とすること、この地帯の人口規模は当時の五六万人から百万人に増加すること、千葉港、船橋港は一万トン級の船舶が接岸できる港湾にすること、両港の間に一万トン級の船舶が航行できる京葉運河を開さくすること、千葉市の工業地区は重工業地区とし、船橋市・市川市の工業地区は軽工業・消費財工業地区とすることなどであった。このように新しいビジョンとしての京葉臨海工業地帯の構想が確立したのは、昭和二十六~二十七年の千葉県総合開発計画審議会においてであり、その提案は昭和二十六年七月に作成された千葉県総合開発計画であった。

 これに対して千葉市に川崎製鉄千葉工場を誘致することは、昭和二十五年十月に千葉市長の宮内三郎らによって決定された。これは京葉臨海工業地帯の構想以前における政治的決断であり、これによって新しいビジョンの形成が現実性を持つことができるようになった。つまり京葉臨海工業地帯の構想は川崎製鉄の誘致から芽生えはじめたのである。