京葉工業地帯という地域概念は京浜工業地帯に相対する地域概念である。しかし京浜工業地帯は東京都、神奈川県の臨海部の工業地帯を意味するが、京葉工業地帯は千葉県の東京湾岸(浦安町・市川市・船橋市・習志野市・千葉市・市原市・袖ケ浦町・木更津市・君津市・富津市)の臨海部の工業地帯を指している。京葉工業地帯のうち東京湾岸の埋立地に立地して工場用地が水際線に接する工場地帯は特に京葉臨海工業地帯という。工場用地が水際線に接するとはその工場が工業港の専用埠頭を持っていることを意味している。京葉工業地帯は東京湾岸にある臨海工業地帯に接続する内陸において、その市または町の都市計画における用途地域の工業地域までもふくめて考えられる。ただし東京湾岸にある市又は町の内陸工業団地は京葉工業地帯の地域には入らない。京葉工業地帯と京葉臨海工業地帯とはほとんど地域的には同一概念とみてもよい。
京葉臨海工業地帯という概念は昭和二十六年の千葉県総合開発審議会において初めて承認された地域概念であった。しかし京葉といわれる地域は流動的であり、しだいに拡大された。国土総合開発法にもとづく千葉県総合開発計画(昭和二十六年)に京葉地域の使用があらわれた。この計画書は県の開発地域区分として、京葉・内湾・安房・大利根・九十九里の五地域に分けている。このときの京葉という地域は「船橋付近より養老川河口付近までの埋立造成の予定地」を指していた。同じ東京湾岸であっても、市川市・浦安町も養老川河口から南方の袖ケ浦町・木更津市・君津市・富津市の臨海部は京葉臨海工業地帯に入らなかった。養老川河口から南方は内湾地域であった。
昭和三十五年の千葉県地域別開発計画になると、京葉・近郊・内湾丘陵・九十九里・大利根・安房夷隅の六地域に区分された。内湾丘陵・九十九里・大利根・安房夷隅は名称は多少ちがっても地域範囲は昭和二十六年の千葉県総合開発計画書の地域と同じである。しかし京葉は近郊と京葉に二分されている。京葉は市川市・浦安町・船橋市・習志野市・千葉市・市原市にわたる範囲に限定して、近郊として内陸の松戸市・柏市・野田市を独立させた。京葉から近郊を分離したのは、内陸工業団地の発展と首都圏整備計画において、首都圏を既成市街地・近郊地域・市街地開発地域の区分をとったからであった。
昭和三十七年の千葉県長期計画には開発地域の区分として京葉がなくなった。この地域区分は東葛・葛南・千葉・君津・九十九里・大利根・安房夷隅の七地域となった。昭和三十五年の地域別開発計画の地域区分に対比すれば、東葛は近郊であり、葛南・千葉は京葉であり、内湾丘陵は君津であり、九十九里・大利根・安房夷隅は名称も地域も変わらない。昭和三十七年の『長期計画』では京葉が葛南(市川市・浦安町・船橋市・習志野市)と千葉(千葉市・市原市と内陸の四街道町・佐倉市をふくめていた)の二つの地域に区分した。このように東京湾岸の臨海部は葛南・千葉・君津の三地区に分け、臨海工業地帯を連続させず、遮断緑地をおいて区分するようになった。京葉という名の地域が分解したことは三地区が異なる発達をする方向を示したからであるが、京葉臨海工業地帯という用語はもはや計画地域ではなく、三つの開発計画地区を総称する地域名として、具体的に存在する地域となったからである。このことは昭和四十四年の『千葉県新長期計画』でも同様に京葉臨海工業地帯は三地区に区分されている。しかもこの新長期計画では開発計画地域が近郊整備地帯・北総地域・南総地域の三大区分にまとめられた。京葉臨海工業地帯は近郊整備地帯の臨海部を占めることになった。そして千葉市の臨海部はこの京葉臨海工業地帯の核心として、開発の先行地域として登場した。