川崎製鉄千葉製鉄所の誘致への経過

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 千葉市へ川崎製鉄を誘致することは、千葉市が消費都市から生産都市に変わり、千葉県が農業県から工業県に変わるということに大きな意義があり、東京湾岸に京葉臨海工業地帯を造成する第一歩であった。川崎製鉄が千葉市に立地したことについては、千葉県と千葉市の誘致事情もあり、川崎製鉄の進出事情もあり、またその背景には日本経済からみて東京湾岸に大製鉄所が進出する必然性があった。

 終戦直後は県・市ともに食糧問題が中心であり、工業対策を打ちだす余裕はなかった。しかし食糧事情は昭和二十四、五年から安定し、千葉市の産業も戦前水準に近づいた。県・市ともに地方財政・経済の発展策をとり始めた。このころ千葉市南方の埋立地六〇万坪の利用が大きく浮かびあがった。この埋立地は戦時中は日立製作所があった所であり、埋立地の所有権は千葉市ということになっていた。しかし登記がすんでいないので地図の上では海となっていたし、賠償指定地であり、所有権がはっきりしないので利権屋の暗躍が激しかった。

 昭和二十一年に決定した復興都市計画の目標の一つとしての千葉市の工業都市への発展のために、県・市は企業誘致の運動にのりだした。それは昭和二十五年から始められた。二十五年四月に日本板ガラスが工場建設のため千葉・木更津・館山の臨海部を視察したが、港湾と電力事情が悪いので不調となった。同八月に千葉市と県は大日本紡績・日清紡績・倉敷紡績などの誘致計画を立て、何回か交渉したが立地条件が不良として成立しなかった。同年九月に白石工業が埋立地を視察したが話合いがまとまらず、十月になって川崎製鉄との交渉がもちあがった。これは当時の山路通商産業局長が橋渡しをしたものであった。川崎製鉄の誘致問題に千葉市と県は大きな期待をいだき、国会議員も活発に動いた。

 一方川崎製鉄の誘致は地元漁民の死活の問題であった。戦時中に憲兵隊の圧力で強制的にとりあげられた漁場の埋立であり、製鉄所の立地で残った漁場が工場排水による被害をうけることを恐れた地元漁民は川崎市の日本鋼管や各地の実情を調査して、反対はしなかった。このころ川崎製鉄は山口県の防府市や光市からの誘致をうけていた。当時の関東経済安定本部長官や佐藤自民党幹事長がこの誘致運動を応援していた。防府市と光市は、港湾・工業用水・電力などの条件が千葉市より優れていた。この競争相手に対して千葉市は港湾も用水も電力も不備であった。その上、誘致の最高責任者であるべき川口県知事は辞任して、柴田副知事や石橋副知事と知事選挙の最中であり、総務部長が知事代理をしていた。川崎製鉄はこれらの事情を利用して、有利な交渉を進めた。川崎製鉄は進出条件として、一〇項目の要求を出した。その主な項目は埋立地六〇万坪の無償提供、工業用水の建設は県・市の責任とする、五カ年間の免税、一万トン級の船舶が出入できる港湾の建設、電力の導入などであった。県・市も川崎製鉄の進出条件は虫のよすぎる条件とし、これを承認するかどうかで県会・市会で激しい討論が行われたが、川崎製鉄の一〇項目の要求を承認することになった。同年十一月十三日に最終的な交渉となった。東京通商産業局二階会議室において、宮内千葉市長・知事代理・県経済部長・県選出の衆参議員の代表者は西山川崎製鉄社長・同社幹部と会見して、会社側の要求一〇項目の全部を承認することを回答した。会社側は別室で一時間余りも協議して「要求を全部承認されたので千葉市に川崎製鉄は進出するといわざるをえない。」と返答した。十一月十五日千葉市市議会議員協議会、県議会常任委員長会議、各政党代表者会議において正式に誘致を決議し、同月二十日に県議会の全員協議会で可決、十二月二日に県・市の関係者を集めて県庁内に川崎製鉄建設促進対策本部をおいて、ここで建設をめぐる諸問題を解決することにした。こうして千葉市に川崎製鉄を誘致することは一カ月でまとまった。

 川崎製鉄が千葉市に進出したことは会社側の事情もある。川崎製鉄とは当時生まれたばかりの会社で、昭和二十五年八月に資本金五億円で設立し、工場進出の場所を探していた。川崎製鉄は設立されたばかりの新会社であったが、その起源は古い。この会社は川崎重工業の製鉄部門を分離したものである。この製鉄部門は明治十一年(一八七八)の創業である川崎造船所が自社用の鋼材を自給するために明治三十九年(一九〇六)に兵庫工場を建てた。大正七年(一九一八)に葦合工場を新設して造船用鋼板を製造した。戦時中の昭和十四年に川崎重工業と社名を改め、製鉄・製鋼部門の工場を西宮・知多・久慈などに新設したが、川崎製鉄は平炉メーカーであった。川崎製鉄はこれらの既存工場に対して銑鉄を自給できる大製鉄所が欲しかった。高炉を建設して最新鋭量産設備の銑鋼一貫生産の工場を建設し、これを素材センターとし、葦合・知多・西宮・久慈の各工場はここから鋼材をうけとって鋼材加工センターに再編成し、川崎製鉄の生産体制を確立しようと考えていた。それは当時の経済事情も背景となっていた。昭和二十五年六月に朝鮮動乱が始まり、急激な景気の回復とともに鉄鋼価格は暴騰し始めた。そのために造船・機械・車両の製造に大打撃を与え、川崎重工業という企業の各部門に必要な鉄鋼素材の供給を安定化することがせまられていた。そのために八幡・富士・日本鋼管についで日本四番目の銑鋼一貫メーカーに飛躍することが、川崎製鉄の最大の念願であった。昭和二十五年十一月に千葉市と川崎製鉄との進出交渉が成立すると、川崎製鉄は銑鋼一貫工場の建設計画を発表した。しかし川崎製鉄は資本金わずかに五億円、その経理面では手固かったが、資金が乏しい平炉メーカーに銑鋼一貫工場の建設費一六〇億円は莫大なものであった。川崎製鉄の当時の売上高は年間約二百億円、その純益は二二億円と考えられ、そのうち一〇億円は税金・株配当に回し、千葉製鉄工場の建設費は残りの一二億円であった。したがって、社債・借入金に大きく依存した。そこで建設資金をつくるために、高炉建設などの基幹工場の建設と並んで、昭和二十六年四月にメタルラス工場を操業し、同年九月にワイヤロープ工場、同十二月に薄板工場を操業して資金を生みだした。これはにわとりに卵を生ませてふやす方式の「にわとり工場」であった。このような状況であったから、工業用地六〇万坪の埋立地の無償提供をうけたことは川崎製鉄に大きな利点であった。また昭和二十六年六月十八日付でGHQから埋立地が賠償指定地から解除されたこと、旧日立製作所にあった数千台にのぼる工作機械、電気・土木・木工機械も使用できることになった。更に米国のハルビソン・ウォーカー社製のシャモット耐火煉瓦の輸入もGHQから許可され、高炉二基分の三三万五千ドルの煉瓦を輸入した。

 このような千葉県と千葉市の誘致事情と川崎製鉄の進出事情があったが、その背景として東京湾岸に大製鉄所の進出する必然性が熟していたことを指摘しなければならない。製鉄工業は鉱石・原料炭の輸入先を、戦前の八幡製鉄のように大陸に依存できず、戦後はアメリカやアジア太平洋地域に輸入先をきりかえなければならないので、瀬戸内海の防府市や光市より東京湾岸が最有力であった。またすでに製鉄所は昭和十二年に日鉄が、姫路市の広畑の臨海部に百万坪の大製鉄所を建設していたので、百万坪級の用地と大型工業港を造成できる遠浅の海岸をもつ東京湾岸が最適地であった。この海底は高炉をのせるにたる地耐力があり、工業用水は印旛沼から引水し、更に被圧地下水を深井戸から取水できた。また日本の製鉄分野は当時は関西に七〇パーセント、関東に三〇パーセントであり、大都市東京の消費地のほかに関東・東北地方の需要に応ずることができるのであった。したがって川崎製鉄が東京湾岸に進出した後に、葛南地区に日本鋼管の進出計画や君津地区に八幡製鉄の進出計画が続々と発表された。