昭和二十六年二月一日、川崎製鉄千葉製鉄所は起工式を行った。それから一年三カ月の短期間に第一期工事の大半を終えて、同二十八年六月第一号高炉(日産六百トン)、平炉三基は昭和二十九年一、三、五月に完成、分塊ミルは同年九月に完成、これで第一期工事は終わった。つづいて第二期工事は、第二号高炉(一千トン)が三十三年三月に、第三号高炉(一千五百トン)が三十五年四月に完成し、平炉は第三、第四が三十四年十二月に、第五、第六は三十五年四月に完成した。圧延ではホットは三十三年四月、コールドは三十三年六月に完成した。第三期工事は第四号高炉(一千五百トン)が昭和三十六~三十八年に完成、第五号高炉(三千トン)が三十九~四十年三月に完成した。これで粗鋼生産能力は年産五百万トンとなった。圧延は年産三百万トンの第二ホットが三十六~三十八年に完成、年産六〇万トンの第二コールドが三十五~三十八年に完成、更に第三コールド(年産二四万トン)が三十八~四十年に完成した。また日産一五〇トンの第一、第二転炉は三十六~三十八年に、第三転炉は三十九~四十年に完成した。これら主要施設の完成によって出鉄能力は日産一万トン、粗鋼の年産六五〇万トンに達した。かくて当時東洋一を誇る銑鋼一貫工場が完成した。
この建設過程は驚異的スピードであった。しかも当初の建設には電力は一日当たり二千キロワットというわずかな割当てと、午後六~一一時までの使用禁止の時間を除き、昼夜兼行の突貫工事をした。そればかりではない。第一期工事は経済の大変動の時期であった。昭和二十五年の朝鮮動乱による特需で物価が高騰した。昭和二十八年七月に動乱の休戦で特需が減少し、金融引締め政策が行われ、鉄鋼の需要が減少した。昭和二十九~三十年は造船汚職や海運不況となり、造船所は不景気であった。三十一年からは第十一次計画造船が始まって鉄鋼景気がもちなおった。また銑鋼一貫工場の建設計画を発表した昭和二十六年のころ、全国の高炉三四基のうち操業中は一六基であり、一八基は休止中であり、過剰生産であった。そのため川崎製鉄の高炉新設に対して二重投資論をもって批判された。ことに朝鮮動乱後の物価騰貴とインフレーションの傾向が強かったので長期設備資金の貸金抑制が行われ、当時の日銀総裁から高炉新設には資金を貸せないという談話もあり、川崎製鉄の建設計画は規模縮少か工事延期かといわれたこともあった。あるいは昭和三十一年に川鉄免税問題があった。千葉製鉄所の主要工事完成後の五年間は免税するとの誘致条件があった。千葉市では昭和三十一年に千葉製鉄所が完成と決定し、昭和三十六年から固定資産税などの徴収を開始しようとした。川崎製鉄は第一期工事に完成すべき圧延部門のホットとコールドミルを第二期工事に見送ったので主要工事は完成していないとの見解であった。このように川崎製鉄は、経済の大変動の中で資金難に耐えながら、社運をかけて、千葉製鉄所を建設した。