首都圏における役割論

91 ~92 / 546ページ

 戦後の千葉市はめざましい発展を続けている。この発展過程において市民意識は大きく変化してきた。ここでいう市民意識とは、市民の平均的見解というよりは、市民意識を先導する見解といった方がよいだろう。したがって市民意識を先導する見解は千葉市の発展を予側して、具体的な発展現象が出現するのに先だって唱導され、市民意識の発展を推進させてきたということができよう。

 昭和二十年代の市民意識は「千葉市の復興」であった。これは昭和二十六年に千葉市の各分野が戦前水準を越えたことによって実現できた。昭和三十年代は「消費都市の千葉市から生産都市の千葉市へ」ということが市民意識の主流であった。昭和四十年代は「首都圏の東の副都心としての千葉市」という市民意識が形成され始めた。そして昭和四十年代末から「百万都市の建設、国際都市としての千葉市」という市民意識に発展した。この市民意識の発展において、昭和四十年代から首都圏において千葉市はいかなる役割りを果たすかという千葉市の首都圏における役割論が現われるようになった。この考え方は千葉県の首都圏における役割論の唱導を背景としたものであった。千葉市は千葉県の中心都市であるから、県の動向がもっとも敏感に反映し、県政の方向に先導的役割りを果たしてきたことは当然であろう。

 県政に千葉県の首都圏における役割論が意識されはじめたのは最近のことである。千葉県は昭和二十六年の『千葉県総合開発計画書』(現況の部及び計画の部)を作成してから昭和四十四年の『千葉県新長期計画書』の作成にいたるまで何回も開発計画を作成した。何回も作成しなおさなければならないほど千葉県の発展は計画と予測を上回るからであった。これらの総合開発計画や長期開発計画において、千葉県の首都圏における役割りを意識的におしだしたのは、昭和四十四年作成の『新長期計画書』からである。その前の昭和三十七年に作成した千葉県長期計画(基本計画)は工業立県政策を中心としたものであって、首都圏における千葉県の役割りについてあまり意識していなかった。

 昭和四十四年の『新長期計画書』に「首都圏における千葉県の役割」として次の四項目があげられている。

 (1) 首都圏への人口集中、産業の集積に伴い、都市人口の激増が予想されるので、合理的な土地利用を図り、スプロールを極力防止して計画的に人口を受け入れるために、宅地・住宅の大量供給を図ること。

 (2) 公害防止に十分努めながら京葉臨海工業地帯を完成させるとともに、都心から周辺に分散する内陸工業を計画的に受け入れることにより、わが国経済の発展に寄与すること。

 (3) 首都圏における人口の増加による食糧需要の増大と需要構造の変化に対処し、たんぱく質・ビタミン供給源としての生鮮食料品の供給を図ること。

 (4) 所得水準の上昇、余暇の増大等によるバカンス・レジャー需要及び都市生活者の自然への接触の欲求等により、観光人口の激増が予想されるので健康な観光、レクリエーション地域として整備を図ること。


 この「首都圏における千葉県の役割論」のうち、(1)と(2)は千葉市の首都圏における役割りに密接な関連がある。これに続いて、『新長期計画書』は、「二十年後の千葉県」を展望している。その(1)は工業化の進展、(2)は流通機能の充実、(3)は都市化の進展、(4)は高能率、高生産農業の実現、(5)はレクリエーション需要の充足などをあげている。このうち(1)において京葉臨海工業地帯の造成の完了とわが国最大の重化学工業地帯の実現を期待している。また(2)において千葉港と木更津港によって千葉県は首都圏の流通機能を果たすことを述べ、(3)において大規模住宅団地が各地に造成されるとともに、特に千葉市は首都圏の副都心となり、東京の都心機能を分担することを述べている。

6―7図 首都圏における都市機能の分布