千葉市の市民意識に、首都圏において千葉市はいかなる役割りを果たすべきかが現われてきたのは、前述のように昭和四十年代半ばになってからであった。むしろ昭和四十年代の前半は千葉県という地域の中枢都市として千葉市の役割りを任じていた。昭和四十年代の後半になって、首都圏における千葉市の役割りを強く意識し始めたといってよい。それだけ千葉市の発展がめざましいものであっただけでなく、千葉市の将来を展望できるようになったことにもよるだろう。千葉市の総合開発計画書は、昭和四十年の『千葉市総合開発計画』と続いて昭和四十六年に『千葉市長期総合開発計画』が作成されている。第一回の総合開発計画をたててから数年後にまた第二回の総合開発計画をたてなおすことは、市の発展の異常さと展望に見通しがつく段階に立ちいったことを裏書きしているものである。
昭和四十年の『千葉市総合開発計画』における都市像は次のようにとらえられている。「計画の目標および策定の基本方針」のなかに、「本市は生産都市としての基調を変えることなく、学術・文化・娯楽の拠点として、交通運輸の要衝として、更に流通・消費・金融・サービスの核となる近代的総合都市に発展を目指す」とし、「外的には諸外国および関東・東北その他の各地との間の経済的連けいを通じて経済拠点とする」と述べている。
この当時の千葉市は都市施設が遅れていたから近代的総合都市の建設が重点であって首都圏の中の千葉市の役割りを強く打ちだしていなかった。京葉臨海工業地帯のうち千葉地区はほぼ完成に近づいていたが、内陸工業団地は造成中であり、商業は前近代的で市民の購買力がかなり東京に流出していた。千葉市が百万都市に近い将来になるとの予測もなく、今でこそ目白おしにならんでいる大規模住宅団地は当時ではペーパー・プランの段階であり、中小規模の住宅団地も造成中であった。
これに対して、昭和四十六年に作成された『千葉市長期総合計画』においては次のように千葉市をとらえ、その都市像と都市構想をえがいている。
「千葉市は従来からの千葉県における行政・経済・文化の中心地としての県都性、京葉工業地帯の中心都市としての工業都市的側面に加えて、近年では東京のオーバースピール人口の流入による住宅都市、千葉港を海の玄関とし、成田国際空港を空の玄関とする世界に伸びる国際都市としての性格を持つ」としている。
しかし千葉市はこの発展過程に改善すべき点がいくつかある。
(1) 千葉市は県都でありながら、東京という巨大な全国的中枢管理都市に近いので、他の県都と比べて業務・管理機能の集積が不足し、高次の文化的施設がよく整備されていないので都市機能が充分に発達していない。
(2) 京葉臨海工業地帯の先進地区として、千葉市と市原市は公害の発生が激しく、大いに反省をして公害をなくするようにしなければならない。
(3) 流入人口の増加は東京に顔を向ける市民を増大させ、市民意識の低下、市民の連帯感を薄め、財政上も住宅団地の関連公共投資が多くなり、市の財政は苦しくなっている。
(4) 千葉港は港勢が全国の港湾のうち第三位にあるが、企業の専用埠頭が大部分を占めるので、公共埠頭を整備し、港湾都市としての自覚を持ち、われわれの港湾として市民に親しまれるようにしなければならない。
(5) 近い将来、人口が百万をこえるが、これは千葉市の歴史において画期的なことでありながら、都市機能はこの事態に対処できず、東京依存のみが強くなり、東京に埋没した都市となる可能性がある。そして千葉市の歴史と風土の崩壊と地域文化の不毛地となるおそれが多い。したがって新しい千葉市の市民文化を創造し、都市の精神的自立を図る必要がある。
今日の千葉市は昭和四十五年に人口が五〇万人をこえ、昭和六十年に百万人になることが確実な未来となった。千葉市は県都として中心都市であることはもちろん首都圏の東の副都心になりつつあることを市民は意識してきた。それが千葉市の市民をして首都圏のなかの千葉市の位置と役割を果たそうとしている。更に千葉市は首都圏の東の副都心という首都従属性から脱して、大型港湾と国際新空港を考慮に入れて国際都市としての役割りさえ果たそうとしている。そこには都市の自立性を都市の物象性のみならず、都市の精神にさえ創造しようとしている。かつて昭和二十一年の復興都市計画にかかげられた新しいビジョンはここまで膨張してきた。しかし市民意識としての百万都市、首都圏の中の東の副都心、そして国際都市として千葉市には、名実ともに内容を備えるまでにはなすべきことがまことに多いといわねばならない。