千葉県の工業化にとって最大かつ緊急の問題は、工業に必要な電力をいかに供給するかということであった。当時、千葉県は必要電力の九九パーセント以上を県外からの移入電力に依存しており、また県内の電力事情についてみると、戦後の農水産用電力の需要増だけでも、需給関係はひっ迫していた。そこで、川崎製鉄の建設用電力にもこと欠き、新規の敷設を必要としたのである。その後、一五万ボルト送電線が敷設されて当面の必要電力は確保されたが、これで電力問題が解決されたわけではなく、工業化時代に備えて、県では独自の施策を練っていた。
このころ、電力供給方式は、火力にベースロードを、水力にピークロードを負担させる火主水従方式へと転換しつつあった。
東京電力では、需要の増大によって電力の供給不足が問題となり、電源開発五カ年計画を立て、それに基づいて昭和二十七年六月、六万キロワット発電機二基による発電所の建設を計画した。その立地条件として、
(一) 石炭年間二五万トン消費。その輸送のため、七千トン級船舶の入港可能な港湾施設が必要。
(二) 発電施設用地一六・五ヘクタールが必要。
(三) 隣接に石炭かす投棄による埋立可能地があること。
(四) 電力の消費地に近いこと。
の四点を定め、この適地を千葉県側に求め、昭和二十七年七月、千葉周辺の調査を行った。県・市では、当面の増大する電力需要を賄(まかな)うばかりでなく、工業県への脱皮のための備えとしても、この誘致に積極的に努力した。その結果、同年十二月八日、東京電力より、
(一) 埋立海面の位置――千葉市及び生浜町川鉄工場南方海面。
(二) 埋立面積――約三六万坪。
(三) 埋立の目的――火力発電所建設敷地造成。
の三点からなる、敷地造成に関する申請書が知事宛に提出され、火力発電所の建設が決定した。
これを知った蘇我漁業協同組合は、建設絶対反対をとなえた。交渉は難行したが、漁民対策として、電源開発方式による補償費の算定、東京電力への就職斡旋など五項目が提示されたことにより、条件闘争に移行し、昭和二十九年十月、補償協定が成立した。発電所の建設計画は、同十月に完成し、埋立と港湾施設・付属設備の一部を、東京電力の委託工事として、県の手で着手した。同三十年九月、三八ヘクタールの埋立が完了した。
発電所の一号機は米国から輸入され、出力一二万五千キロワット。昭和三十一年十二月から運転が開始された。
一機一〇万キロワットを越えるタービン発電機は、当時わが国最初のものであった。
以後、二号機は昭和三十二年十一月、三号機三十四年一月、四号機同年八月にそれぞれ運転が開始され、投下資本約四百億円、延四年一〇カ月をかけ、最大認可出力六〇万キロワットの、大新鋭火力発電所が完成したのである。
この発電所の完成によって、千葉県における工業化のあい路であった電力事情が画期的に改善されたばかりでなく、電力の供給県となったのである。
川鉄が立地し、電力の供給地となったことは、この地域が工業適地であることを全国に知らせることになり、またこの立地自体が近代工業の立地条件を作りだすという、重要な役割りを果たすことになったのである。
なお、東電用地造成中の昭和三十年には、船橋市の委託を受けた朝日興業の手によって、埋立による工業用地の造成が開始され、昭和三十六年、一七二ヘクタールの埋立を完了した。これは、船橋市最初の工業地帯造成であった。同年、鋼管類製造の久保田鉄工、製粉の昭和産業などが、この地で操業を開始した。川鉄、東電立地後の昭和三十二年、塩田地区で操業を開始したのは、電気製銑の東邦電化工業株式会社である。国内資源の利用という立場から、本県産の砂鉄を利用し、川鉄立地と東電火力の稼動による夜間の余剰電力を利用して、製鉄を行った。当初は従業員一三〇名を擁し、飯岡から大原にかけての低燐砂鉄と、安い余剰電力を利用して、月産約三五〇トンの電気銑鉄を生産した。しかし、銑鉄の生産増大につれて価格が低下し、また一般の高炉でも良質な銑鉄が生産されるようになり、電力も需要増大につれ割高になってしまった。その上、地元県内での需要がなかったなどの原因が重なって、赤字が累積し経営不振となり、ついに用地を売却、従業員は近隣の企業に転職し、昭和四十三年八月解散した。地元資源を利用し、川鉄に次いで進出した企業であったが、一一年で消滅した。この間に支払った電気料は、総額一四億円に達した。