6 海岸埋立による工業地帯造成の本格化

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 昭和二十六年ごろから三十年ごろにかけての新技術と市場条件は、わが国工業の立地に大きな変動を与えた。例えば化学工業は、石油利用に便利な太平洋岸臨海地帯や天然ガス産地に移動し、鉄鋼業は市場への立地であり、新鋭火力の台頭にともなう電力業界も、鉄鋼業と同様であった。このようにして、一方では新しい技術と結びついて新工業地帯が形成され、他方では市場条件にもとづいて従来の工業地帯、特に、四大工業地帯への集中が促進された。新工業地帯への殺到と、四大工業地帯への過度集中は、用水不足・用地不足・産業公害・輸送力の限界・港湾施設の不備不足など、工業の立地条件の悪化を招いた。このような情勢下に脚光を浴びたのが、京葉臨海地帯であった。

 千葉県は大工場の誘致によって産業構造を近代化し、失業している労働人口に職場を与えて、県民所得の向上、税収の増大を図ることをめざし、これが首都圏における人口・産業の過密化の緩和と防止、その適正配置をめざす首都圏整備法や、その他の法にみられる国策と合致して、京葉臨海工業地帯の造成や、更には、内陸工業団地の造成となったのである。京葉臨海地帯に着目し、最初に進出した企業は旭硝子株式会社であった。同社は、五井地区に工場を建設して、千葉県の天然ガスを使用し、ソーダ・肥料などの製造を計画し、工場用地の斡旋を申し出たのが、昭和三十一年八月であった。

 当時の県財政は累積赤字一三億円に達し、最悪の状態であった。地方財政再建特別措置法の適用を受け、赤字克服のために計画樹立がいそがれ、昭和三十一年十二月に「千葉県産業振興三カ年計画」が作られた。ここでとりあげられたのが、五井・市原地区の埋立による工場用地の造成である。用地造成に必要な資金は、進出予定企業に先払いさせるいわゆる「予納方式」によってまかなわれることになった。その不足分は、三井不動産の資金力にたよった。

 このようにして五井地区は昭和三十二年、市原地区は三十三年より用地造成に着工し、三十五年には、合計六五三ヘクタールの造成を完了した。東京通産局の仲介もあって、五井地区には、旭硝子・東電・丸善石油・新日本窒素、市原地区には、日本特殊鋼後に不二サッシ・大日本インキ・富士電気・古河電工・古河鉱業・京葉天然ガス後に昭和電工・三井造船の計一一社の立地が決定した。旭硝子は、早くも三十四年十一月には操業を開始した。

6―22表 昭和34年の工業統計
現市域昭年34年比率
事業所数(所)(県)6,916100
千葉市5047
市原市1382
市川市4817
船橋市2864
従業者数(人)(県)92,687100
千葉市15,68317
市原市9691
市川市11,59812
船橋市6,9567
出荷額(億円)(県)1,609100
千葉市52432
市原市7
市川市20212
船橋市15610

(『千葉県工業統計調査報告書』より作成)

 千葉市域は、事業所数では周辺諸都市とどれほどの差もみられなかったが、従業員数ではややリードし、出荷額となると断然他を引き離し、県全体の三分の一近くを占めた。一方、当時の市原市域は、工業に関して全く問題外であった。これが九年後の昭和四十三年には出荷額で千葉市を追い越し、全県の二四パーセントを占めて、県下第一の工業都市となるのである。

 工業生産額、従業員数で断然他市をリードした千葉市工業の主役は、川崎製鉄であるが、その労働力の変遷と充足過程を、昭和三十五年の『京葉地帯調査報告書』でみると次のようであった。

 二十六年の従業員は二百名、うち工員は百名であった。二十七年七月、はじめて従業員の大口募集を開始し、一、二八五名(うち工員七六一名)となった。三十一年一月には、四、一八四名(うち工員三、〇六五名)と増大した。他の工場からの転属が一、九二四名で、県内での採用は、一、八四二名であった。三十四年一月には、七、四五九名(うち工員五、九六八名)となり、これは千葉市の工業総従事者の四八パーセントであった。内訳は、転属者三、二一三名、県内からは二、五二一名。三十五年一月には、八、六六四名、うち転属者三、四七〇名、県内より、三、一一〇名であった。

 県内からの採用者の絶対数は、三十一年よりも、一、二六八名の増加ではあるが、川鉄従業員中に占める割合は、四四パーセントから三六パーセントに低下した。転属者が多いのは、本県から採用した未熟な労働者の技術指導のための基幹工という役割のほか、設備近代化の進展にともなう、旧設備から新設備への配置転換という意味もあった。

 県外出身工員は、増加傾向にあり、出身地は主に東北地方であった。

 新規採用数は、昭和三十四年が一、二六〇名(うち女子六五名)、三十六年が二、八八五名(うち女子一三四名)で、男子に比べ女子の採用数が極端に少ないことが特色であった。

 新規入職男子の年齢は、一八~二九歳までが主で、中でも二〇~二九歳までの増加が著しかった。

 昭和三十五年の川鉄の粗鋼年産二一三万トン、売上高八六三億円であった。