7 川崎製鉄の発展と完成

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 昭和三十三年、名実ともに一貫工場としての生産体制を確立した川鉄は、その後も年産粗鋼六五〇万トンをめざして、設備の増設・拡充を行った。

 三十四年に第三・第四平炉、三十五年に第五・第六平炉が建設され、平炉工場が完成した。三十五年四月、第三高炉に火入れをし、第二期工事を完成した。

 川鉄で使用する工業用水は大量であるが、初期には地下水にそれを求めた。この地区の地下水適正揚水量は各井戸三百メートル間隔で、一井当たり一日一、四四〇立方メートルで、川鉄構内で一日約四万立方メートルの利用が可能であった。しかし、更に一日一五万立方メートルの水を必要としたため、水源の確保が問題になった。

 そこで、水源を印旛沼に求め、毎秒一・八立方メートルの用水を佐倉市臼井地先から取水できるように二十八年六月、「利根川水系印旛沼の河川引用、工作物設置並びに河川敷利用」の申請書を千葉県知事に提出した。印旛沼は農林省の手で干拓中であり、用水取水と干拓事業は利害が相反した。そこで農林・建設・通産三省の調整が必要となり、昭和二十九年十月、三省局長と千葉県との間で、「川鉄工業用水に関する覚書」を締結した。更に農業用水との競合を避け、円満に取水するため、印旛沼土地改良区・県・川鉄の三者は、三十六年八月、協定書をとりかわした。その後、川鉄は工業用水施設の建設に着手した。

 第一期工事は、昭和三十八年三月に完成した。取水量は毎秒〇・九立方メートルで、川鉄の得た水利権、毎秒一・八立方メートルの半分量であった。臼井地先より宮崎町の配水池までは、ポンプ圧送し、配水池から工場までは自然流下で送水した。

 川崎製鉄では、早くから蘇我・村田地先を埋立て、工場増設を希望していたが許可されず、そのため岡山県倉敷市に用地を取得し、三十六年六月、水島製鉄所を開設した。

 千葉製鉄所では第三期工事が進められ、昭和三十六年八月、第四高炉に火入れした。次いで、薄鋼板の生産体制の強化などを行い、四十年三月には、当製鉄所最後の第五高炉が操業を開始し、粗鋼年産六五〇万トン体制が完成した。

 昭和二十六年二月の起工式以来、じつに一四年を要しての完成であった。四十年の粗鋼生産は四三四万トン、売上高は一、六三三億円、従業員が一万五〇五六名であった。

 ただ、この間に問題になったのは、第二冷間圧延工場建設のための用地が川鉄構内だけでは、手ぜまになったことである。このため製鉄所南方の生浜地区の埋立を行ったのである。