1 開発目標と意義

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 新しいビジョンとして打ちだされた経済開発は工業開発が中心となる京葉臨海工業地帯の造成ということであった。その中において千葉市は消費都市から生産都市に生れ変わろうとした。京葉臨海工業地帯の開発目標は、この計画を策定したときから一貫して固く守られた。千葉県総合開発審議会が県の総合開発計画を昭和二十七年に初めて審議したとき、京葉分科会は京葉臨海工業地帯の開発目標を明らかにしている。その中間報告によれば、

  国の経済自立計画においては、工鉱業生産指数を昭和九―十一年を一〇〇として、昭和三十五年に二四〇―二五〇程度にあげようとしている。このためには全国で一、五〇〇万坪位の新規工業生産基地を造成することが必要である。このうち東京湾地帯で少なくても二三〇―二四〇万坪位の工業地帯を造成することが期待されている事情、及び県政の重要施策として県産業構造の近代化のために工業生産力の振興が京葉工業地帯の造成を内容としてとりあげられていること等の、国政並びに県政上の工業発展の要請がある。

 このように京葉臨海工業地帯の開発目標は「国政並びに県政上の工業発展」にあった。このために埋立地を「船橋付近より養老川河口付近まで」とし、「おおむね百万人前後の人口を擁することとなることが予想される(現在一二六万人)ので、これを基準として教育・民生・衛生・建築・交通等を内容とする工業都市地帯の建設計画をたてる」としている。臨海工業地帯の工業都市の建設は考えられていても、県全体の社会・文化の後進性を解消することは考えられなかった。ただ県内全体に対しては雇用の拡大が目的であった。中間報告は、

 県内人口雇用の適正化をはかるため、この地帯に振興せられるべき第二次産業へ、県内農村の二、三男層及びその他の潜在失業者の吸収をはからねばならない。

と述べている。

 京葉臨海工業地帯の開発目標は、昭和二十年代の千葉県の実態から、なによりも経済開発を第一とし、これによって県の産業構造を高度化し、就業構造を近代化することであった。第一次産業県に工業を開発し、第三次産業をおこし、これらの商工業に第一次産業から人口を移動させることをねらった。この開発目標は地域開発の理念が変化しても軌道は修正されなかった。地域開発の理念は、歴史的過程からみれば、資源開発(天然ガスや砂鉄の生産)から工業中心の経済開発をへて社会開発の時代に移り、更に環境保全・自然保護の時代に変わってきた。工業開発が進むに従って京葉臨海工業地帯の地域社会が崩壊して大きな社会変動をまきおこし、地域悪化を発生させた。更に公害が激しくなり、大気汚染、水質汚濁、地盤沈下、生態系の破壊などを発生させた。それにもかかわらず、経済開発を第一にする開発目標はおし通された。開発目標の転換をせずに、経済開発は社会開発に先行すべき開発段階であるといわれたり、社会開発は経済開発の高度成長のひずみを是正するものであると考えられた。また東京湾沿岸の環境容量をこえる汚染源が増加していくにもかかわらず、環境保全・自然保護は経済開発によるひずみの是正の手段であった。社会開発も環境保全も経済開発の脇役であった。地域開発の目標は、地域住民が健康で幸福に生活のできる状態をつくりあげることにある。社会開発と環境保全は目的であって、経済開発、生産第一主義はそのための手段である。手段のみが強くおしだされて目的がおろそかにされていった。京葉臨海工業地帯の開発目標は、昭和四十年代から軌道修正をしなければならないと強く叫ばれるようになった。