この地域概念は初期からあったものではなく、臨海部工業の発展にともなって形成されたものであった。戦前の昭和十五年における「内務省土木会議」においては「千葉臨海」という名で東京湾東岸を漠然と指し、千葉市地先に一部の埋立地を造成した。昭和二十六年の千葉県総合開発審議会において「京葉工業地帯」という名のもとで船橋付近から養老川々口までの海岸をよんでいた。東京湾調査地域として国土総合開発法によって昭和二十六年に指定されたときは、市川から千葉を経て木更津に至る臨海地帯から内陸の松戸、四街道まで含まれていた。東京湾岸から内陸一〇キロメートルの幅を持つ地帯であった。木更津から富津までは「京葉」に含まれず、「東京湾」とされていた。昭和三十五年の千葉県地域別開発計画においては、内陸部の松戸・野田・柏などは工業の発達にともなって「京葉」から分離されて「近郊」とされていた。また木更津―富津は「内湾丘陵」として海岸と内陸を一帯化して農業地域的なとらえ方であった。昭和三十七年の千葉県長期計画において臨海地帯は分化して、浦安・市川・船橋・習志野は葛南地区、千葉・市原は千葉地区、袖ケ浦・木更津・君津・富津は君津地区となった。このころから浦安から富津まで東京湾岸の八〇キロメートルを京葉臨海工業地帯とよぶようになった。そしてこの三地区に百万坪の遮断緑地をおいて京葉臨海工業地帯を三区分した。
この三地区の臨海工業地帯の造成は、初期にほぼ同じ類型が考えられた。それぞれの地区に大型港湾をつくり、工業港と商業港を造成する。この大型港湾を中心として、基幹産業を配置する。基幹産業は製鉄、石油精製とし、それぞれに鉄鋼・化学コンビナートと石油・化学コンビナートをつくり、またエネルギー供給から大型の新鋭火力発電所をおく。この内陸に関連産業が立地する。この工業用地中心の土地利用はさまざまの条件変化によってかなり変わってきた。浦安地区は住宅地と倉庫等の流通機能の用地とし、都市再開発用地と変えた。市川地区は工業用地のほかに住宅地・都市再開発用地や流通加工用地とした。また埋立地の沖合に野鳥のための人工干潟を造成することになった。市川・船橋・習志野の三市にまたがる葛南港地区は、港湾・湾岸道路・武蔵野東線・湾岸鉄道などが一体となって流通業務地として利用計画が立てられ、また緑地・都市再開発用地にも利用する。千葉地区は臨海重化学工業地がすでにできている。その西部は海浜ニュータウンとして人口二四万人を収容する計画があった。これを一部変更して、新都心として業務用地とする方向に変わっている。君津地区の木更津北・中部は当分の間は埋立を中止する。富津地区は石油コンビナートの立地を中止し、燃料基地、鉄鋼アルミの二次加工・建材プレハブなどの住宅産業と流通用地とする。また中小企業用地をも造成する。君津地区の土地利用は、北端に東京湾横断道路の構想と南端に東京湾横断橋の構想があり、木更津港が東京湾諸港の中でいかなる位置を占めるかは明らかでないのでもっとも流動的である。