内陸部への進出の諸条件

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 臨海埋立地に、重化学工業を主体とする大企業が立地する一方では、内陸部でも、東葛地方を中心に中堅企業の進出立地がみられた。ただ、各企業が独自の判断で立地したので、地域的に分散し、孤立的に分布する場合が多く、内容的にも種々雑多であった。

 昭和三十五年ころからは、内陸部への進出企業が急速に増加し、地域的にもやや集中する傾向があらわれた。移転の内容は、本社・工場の全体を移転させた企業は少なく、工場を増設立地させる形のものが多かった。進出した地域は、一般に旧軍隊の施設あるいは、軍隊の利用していた用地を、戦後入植者が開墾し、農地化したものや、解放されて、林地又は荒地となっていた平坦な土地で、買収しやすく、工場用地にしやすく、しかも、付近に主要街道又は地方道が通って、物資の輸送に便利で、特に東京との結合に便利な土地が選ばれた。

 東京都内の無数の工場は、技術革新期に設備の更新・増設に対して、工場用地の不足・労働力の不足・公害の発生などにより、工場環境の悪化をきたした。更に道路・鉄道網の整備のおくれによる輸送力の隘路化が発生した。これらの条件が都内の工場を地方に分散させる要因となった。

 一方、地方分散は、親工場・問屋・商社から遠距離となり、現地点での下請・関連企業の関係の断絶となる。そのほかのマイナス面も加わって、これが、分散を阻止する要因となる。それらの分散要因と阻止要因とのかねあいで、工場の移動距離は、原材料と製品の運搬が、東京の商社や、問屋・親工場から、トラックで日帰り輸送のできる範囲で、だいたい都心から半径五〇~六〇キロメートル以内となる。東京からの工場分散は昭和三十五年から同三十六年にかけてピークがあった。県刊行の『進出企業一覧』によると、昭和三十五年に千葉・葛南・東葛地区に進出した製造業は、総計七七社であった。七七企業の本社所在地をみると、東京都内が五五、県内一三、関西四、北九州一、その他四で、都内が全体の七一パーセントを占めた。都内では、中央区一二、千代田区九、墨田区九、江東区六、台東区三、江戸川区三、荒川区三であった。

 千葉県に進出した工場は東京の城東地区からのものが多く、現有地の一・五倍から二・五倍の用地を三・三平方メートル当たり五千円から一万円前後で入手した。東京から分散した工場は、多くの場合、旧工場敷地を営業所・倉庫などに使用したり、旧工場で従来どおり生産を続けたりしている。七七企業の内容は、金属加工業二七・機械器具製造業一〇、化学工業八、電気機械器具製造業六、紙加工業五がおもなものであり、従業員数では、三百人以上一四・百~三百人は四三企業であった。

 移転企業は、内容的に、また、規模からして、成長性の高い業種の中堅企業が中心であった。同年、千葉市内に進出した企業は一三で、進出した地域は、長沼町二、園生町四、山王町二、犢橋町二、六方町一、加曾利町一、浜野町一であった。

6―8図 従業員30人以上の工場の分布 (1) 昭和24年現在
(2) 昭和33年現在
(3) 昭和42年現在
(4) 10事業所以上の分布町域と主な事業所内容(昭和46年12月現在)