漁業の変遷

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 明治以降の漁業活動を漁業者及び漁獲量の推移からみると、かなりの変動をみながら、衰退していったことがわかる。

 すなわち、漁業戸数は明治四十年になって二千七百戸となり(当時、千葉郡にあった津田沼町を含む)、昭和十年ころには三千戸となった。第二次世界大戦の間に急減したものの、昭和二十七年には三千戸を越えた。しかし、昭和三十年には激減し、その後若干の増加をみたが、昭和三十八年以降は減少の一途をたどった。就業者の方は、明治期の七千人が高く、大正十年には、それまでの最低の約三千五百人となった。昭和十年ころには、また約七千人を数えたが、戸数の減少と共に急減した。昭和二十七年のころ、すなわち、新漁業法施行のころは、漁業戸数もふえたので、それに伴ってか、約六千人の就業者がみられ、戦後の漁業活動の活況の一時期をなしたことがわかる。その後減少の一途をたどったことは、戸数の減少と同じである(六―一二、一三図)。

6―12図 千葉市の漁業者の推移 (1) 漁業就業者総数
(2) 漁業戸数  戦前は津田沼より生実・浜野に至る地域。 戦後は千葉市のみ、昭和30年以降、幕張、生浜を含む。33年以降(漁業センサス2次以降)は船を所有するもののみ。
6―13図 千葉市の漁獲 昭和15年までは津田沼より生浜に至る地域。21年以降は千葉市のみ。 24年以降生浜幕張を含む。24年以降は浅海養殖を含む。

 漁獲量の方は、生産額の面からみると、大正五~十年の間が、その前後の年に比べて著しい生産を示している。この時期、戸数及び就業者の増加があまりないだけに、生産性が非常に高かったことがわかる。

 第二次世界大戦が終わって、就業者がふえた昭和二十七年ころは、漁獲量は非常に少なく、昭和三十四年のころが、その前後に比べて非常に多く、一六万五千トンの水揚高をみせている。「のり」の収量をみると(六―一四図)大正十年、昭和十五年と昭和三十五年の三回が大きなピークを示し、二〇年ごとに豊作となっている。

6―14図 のり養殖の収量 注 昭和22年まで万貫,昭和26年より千万枚 昭和26年7月は千葉市のみ,他は旧千葉郡の地域

 新漁業法下の漁業の実態を、昭和三十三年十一月一日現在で行われた沿岸漁業臨時調査によってみると、組織別の経営体数では、千葉市には一、七四八の経営体があった。このうちの一、六八九が、無動力船あるいは三トン未満の動力船を用いて操業する漁家であった。漁業協同組合別では千葉が五四〇で最も多く、今井が一三で最も少ない。検見川には五四の個人企業体があった。漁業制度別の操業経営体数をみると、区画漁業権第一種が一、六六八体、共同漁業権第一種が一、五二六体、第二種が三体あり、許可漁業では大臣許可漁業が千葉に一、知事許可漁業が千葉に一一九、検見川に五三の計一七三体、自由漁業は、二六八体が行っていた。許可漁業では小型機船底曳網が主で、二艘まき網漁業が千葉に一体あった。漁ろう作業は二~三人あるいは四~五人の少人数で行うものが圧倒的に多く、六人以上で行うものは四四体にすぎない。漁獲高では金額にして約三千九百万円で、だいたい経営体数に比例している。

 京葉臨海工業地帯の造成に伴い、埋立は急速に進行し、順次に各漁業協同組合のもっていた漁業権は放棄されていった。昭和四十四年には幕張地区を除いて、すべての漁業権は千葉の海から消滅していったのである。

 この間の状況を数量的に三十八年と四十三年とを比較すると六―二九表になるが、幕張・稲毛地区を除けば激減していることがわかる。

6―29表 漁業戸数の変化
地区別経営体浅海養殖専業
生浜38年93913
43〃000
蘇我38〃24424242
43〃24241
千葉38〃603522205
43〃1101
稲毛38〃38630535
43〃32025524
検見川38〃36523540
43〃766818
幕張38〃55852863
43〃60058660
38〃2,2491,923388
43〃1,031933104

 京葉臨海工業地帯の造成に伴う海面埋立が本格的に進んだのは、昭和四十年ころからであるので、昭和三十八年に調査された『第三次漁業センサス』から、その直前の水産業の実態をとらえてみよう。

 同センサスによれば、千葉市には六つの漁業協同組合があり、それに属する経営が二、二四九、水産試験場を除くとすべてが個人経営であった。このうち漁船非使用が二七三、無動力船のみによる経営が三五、動力船は一八、そのほかは「のり」養殖でこれが一、九二三体、就業者数が三、三五二人を数える。漁業種類別では、検見川に敷網経営が一つ、千葉に「まぐろはえなわ」が一つで、ほかはすべて、採貝業(三〇九戸、四四五人)、採草業(一五戸、一九人)とのり養殖業であった。

のり干し(寒川大橋 昭和30年)

 船の数では、無動力船が一、六五四隻、船外機船が一、一七七隻、動力船が二九五隻あった。その大部分が一〇トン未満の船であった。

 最盛期の従事者構成をみると、二、二四九体のうち二、一三三体が、家族のみであり、雇用者を使用するものはわずか五体である。その規模は一人で行うものは八九五体、二~三人で行うものは一、二八二体で、いわゆる家族中心の零細経営であった。漁船・漁網購入資金を積立てていないものが一、七四五戸もあった。

 漁獲物は、経営上からも圧倒的にのりであるが、魚類では、かれい・ひらめ類(稲毛、検見川地区)、あじ(千葉)、まぐろ・ぼら・すずき・あなご・このしろ(いずれも千葉地区)がとれ、水産動物では、あさり・はまぐりを筆頭にえび類・かに類・いかが水揚された。

 漁ろう日数では九〇~二五〇日間操業するものが多く、九〇日以下が三九体、二五〇日以上が二二三であった。

 個人経営二、二四八のうち、専業は三八八で、ほかはすべて兼業で、このうち第一種兼業は一、二九〇、第二種が五七〇世帯であった。雇われのみが六三二世帯もあった。自営者の兼業では農業が最も多く、次いで製造業、卸売業、小売業、遊漁案内などがみられ、雇用者では漁業外への雇われが圧倒的に多かった。

 世帯構成は、全体の六一パーセントが複合世帯であり、幕張地区に多かった。

 漁獲金額別にみると一〇~五〇万円が全体の約半数で一、〇二五世帯、五〇~百万円が七九八世帯、百万円以上が一〇三世帯となっている。一〇万円未満も三二二世帯あるが、これらは、家計の中心者が自営漁業に従事しないか、漁業が従となっているものが多い。

 このころ、千葉市の沿岸では検見川地区に港があったが、規模の小さい第一種漁港で、泊地面積九、九二二平方メートル、水深も〇・五メートルといったものであった。

 水産加工業は一一経営あり、内訳は佃煮業七、ねり製品三、缶詰一で、検見川町に東京湾水産加工業協同組合(組合員数一七)があった。流通面からみると千葉市には、生産地市場はなく、寒川町に千葉市魚問屋協同組合という消費地市場があった。卸売人数は一七人で、「相対」の取引方法で行われた。小売人を対象とする卸商の集合体であった。

魚市場

 なお、千葉市には、千葉県漁業協同組合連合会(市内通町六八・正会員一一三)、千葉県信用漁業協同組合連合会(同右・会員一三六)、千葉県さけ・ます延縄漁業協同組合(同右・会員二九)、千葉県揚繰網漁業協同組合(吾妻町二―五〇・会員九五)、東海区桁網漁業協同組合(検見川町三―一五七・会員四五)、千葉県無線漁業協同組合(吾妻町三―三五・会員三一六)があった。市内神明町には内湾水産試験場があったが、昭和四十年に稲毛海岸一―七二に移り、海洋・水族・水質汚濁・水族被害の調査、海藻類(のり、わかめ、おごのり)の養殖試験、貝類(あさり、はまぐり、かき)の養殖試験を行った。