漁業と漁家の生活

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6―15図 稲毛海岸の納涼台施設

 千葉市の漁業協同組合は、幕張・検見川・稲毛・千葉・蘇我・生浜などである。内湾漁業を大別すれば、海上で操業する沿岸漁業とのり・貝・海藻類の浅海養殖業の二つである。これらの漁業協同組合において、沿岸漁業が活況を呈している地区は検見川・千葉などである。浅海養殖業が盛んである地区は幕張・稲毛・千葉・蘇我・生浜などである。のり養殖業は内湾漁業の主軸であるが、その漁期は十一月から三月までで一年の半ばにも満たない。したがってのり漁期に当たらない期間の生業が必要である。この生業は沿岸漁業・農業・商工自営業・サラリーマン・賃労働者などである。内湾の漁家は、一般に、千葉市より以西では沿岸漁業とのり養殖、貝養殖などを兼業としている。千葉市より以南ではのり養殖と農業経営を主としている。この中間地帯の千葉市の漁家は半ば以上がサラリーマン化している。これは漁家が脱漁業の方向に進行しているものであり、のり・貝類の浅海養殖の生産性がほかの地区に比べて低いことが主因である。昭和三十八年の『第三次漁業センサス』によれば、一、九四六の漁家があり、一漁家当たりののり養殖は三〇坪以上であった。もっとも多い階層は三百~六百坪を経営する漁家で総数の半ばを占めていた。最大の経営は千五百~三千坪であり、これは幕張地区にあった。またのりひび数からみれば、総数は二万七一五四柵であり、一漁家当たり一四柵であった。沿岸漁業が近世から発達していた検見川・蘇我の二地区を除けば、貝類の養殖が盛んであり、あさり・はまぐりの内湾における主産地であった。沿岸漁業と貝類養殖業が不振となり、千葉漁業協同組合地区にのり養殖が導入されたのは明治期であった。幕張・稲毛・検見川地区にのり養殖がひろまったのは戦後になってからであった。

 漁業専業の漁家は二〇パーセントにすぎないが、残り八〇パーセントの漁家についてみれば、のり養殖の経営規模に応じて兼業の種類がかなりちがっていた。のり経営を柵数からみれば、最高の三〇柵から最低の三柵までにわたるが、もっとも多いのは一二柵であった。農業を兼業とするのり養殖者はのり柵の経営階層のすべてにわたって存在するが、比較的に経営規模の大きい階層に多い。これらの漁家の耕地面積は四〇~六〇アールがもっとも多かった。商工業の自営業者はのり柵一二~一五柵の経営階層に多かった。サラリーマン、賃労働を兼業とする漁家は、一二柵以下の経営階層であった。アサリ採取を兼業とするのり養殖者は、最下層の一〇柵以下の経営階層であった。

6―31表 のり養殖面積別漁家数
総数30坪30~9090~150150~300300~600600~900900~1,5001,500~3,000網ひび柵数1体当たり柵数
生浜911178111,00711
蘇我2421223542,90612
千葉522785079,66919
稲毛3242080131933,72011
検見川235187591513,82112
幕張53222589315891116,03111
1,946421226001,0818911127,15414

(千葉県経済部資料)

6―32表 漁業者の農業を自営する世帯
漁業協同組合名組合員(A)農業自営者(B)3反歩以下3~5反歩5~10反歩10~30反歩B/A%
生浜24622750581051492.2
蘇我226145834021164.1
今井13114784.6
千葉539171120371431.7
稲毛1921173421451760.9
検見川228150130135265.7
幕張3022256730587074.5

(『千葉県漁業センサス』昭和30年)

 内湾漁業の中で千葉市漁業の占める位置は低下しつつあった。漁業専業者による沿岸漁業は漁獲高が激減していた。昭和二十五年の漁獲高は一〇七万貫(浦安、船橋、習志野、千葉、市原)であるが、これを指数一〇〇とすれば、昭和二十六年には六七、同二十七年には四八と低下した。昭和二十六年には内湾入口の富津にアメリカ軍が防潜網を設置したので、これが漁獲減少の最大の原因となった。この防潜網は昭和三十年にとりはずされた。しかし、漁獲量は増加しなかった。昭和三十一年に指数五八、同三十二年に四六、同三十七年に一四と激減した。このような漁獲の減少していく過程に、昭和三十七年の漁獲高二、二二八万円のうち、富浦町はこの五九パーセントを占める漁獲高をあげたが、第二位の船橋市は二五パーセントであり、第三位の千葉市は一五パーセントであった。のり養殖は漁業協同組合別にみれば、内湾において、千葉市より以南では組合員の一〇〇パーセント近くがのり養殖に従事し、千葉市より以西では組合員の七〇~八〇パーセントがのり養殖に従事していた。しかし、千葉市や隣接の習志野市の組合員は四〇パーセントがのり養殖に従事する程度であった。のり養殖者の割合が高い各漁業協同組合から千葉市に入漁する者が多く、千葉市の組合員はのり養殖権を賃貸する者も少なくなかった。千葉市の漁業協同組合員には都市的職業の兼業が増加していたからであった。また、千葉市の組合員ののり養殖に対する依存度が低かったのは、のり養殖地として地先海面は内湾のほかの地方よりのり生産力が低く、漁場として劣っていたからであった。

 したがって、漁家の兼業が総収入の大黒柱であった。もっとも多い漁家の兼業は農業であって、組合員の六〇パーセントが農業に従事していた。この六〇パーセントの組合員はもともとは漁家でなく、農家が本業で副業としてのり・貝養殖を導入したものであり、半農・半漁の世帯である。過去において、農村の漁村化という歴史的過程からつくりだされたものである。したがって、経営耕地の面積が三反歩以下の零細農家も多いが、五~一〇反歩層も少なくはない。更に漁家の兼業として第二次産業や第三次産業に従事している者が多かった。商店や手工業や行商などの自営業もすくなくはないが、圧倒的に給与所得者としての公務員、会社員、工員や賃労働者としての日雇などが多い。このような給与所得者が漁家世帯三、四一二のうち四九パーセントも占めていた。この給与所得者の世帯における地位をみれば、世帯主のみが四八七人、世帯主とその子女(長男も含む)が三八六人であり、その合計は八七三人となり、漁家総数の二四パーセントを占めていた。世帯主が給与所得者となっていることは、その漁家は脱漁業の状態にあるといえよう。また、長男のみが給与所得者になっている数は三九二人で総額の一一パーセントを占めていることは、将来の脱漁業を予定していたことになる。この漁家の給与所得者は、昭和三十年度と同三十五年度を比べると、漁家総数の四九パーセントから七五パーセントに増加していた。ことに長男のみと次・三男、子女の給与所得者の増加はこの五ヵ年間に倍増している。千葉市の漁業は急速に後退し、就業者は漁業から都市的な産業へ移動して、漁村の都市化が激しく進行していたことになる。これらの漁家における給与所得者の所得階層をみれば、漁業収入よりはるかに多かった。昭和三十三年の『千葉県漁業センサス』によれば、内湾漁業のうち、のり養殖の核心である富津・君津・木更津・市原地方の漁業粗収益は平均約二十数万円であった。給与所得者のうち年間二一万円以上の者は、総数のうち六八パーセントを占めていた。これらの漁家の生活は、もはや漁業者ではなく、サラリーマン化していた。すでに漁村社会は崩壊しはじめていた。このような状態のところに工業開発のための埋立と漁業補償が行われたのであった。工業開発と埋立の影響は、千葉市以南の半農・半漁の小都市や村落とは異なるものがあった。

6―33表 漁業者の第2次産業・第3次産業を兼業する世帯
検見川幕張稲毛千葉蘇我
商業28401214230
公務員34678610561
会社員709623035448
工員9849112920
手工業31154342
行商99541
日雇2494322
その他713714341
244337405900264

(『千葉県漁業センサス』昭和30年)

6―34表 漁家における給与所得者の数と続柄
千葉稲毛幕張蘇我検見川
総世帯数931538623494836
昭和三十年給与所得がある世帯数459298210155541
戸主のみ123917354136
戸主と子女79742317193
長男のみ93805540124
次三男子女7353574488
不明782
総世帯数984492615356
昭和三十五年給与所得がある世帯数914334365213
戸主のみ274679950
戸主と子女751174114
長男のみ2858612152
次三男子女2466410444

(千葉県水産課資料 昭和30年)

6―35表 漁家の給与所得者の階層
千葉幕張検見川稲毛蘇我
総数605369528188207
10万円以下6622428115
11~20万14246835336
21~30万13056644818
31~40万11246764020
41~50万394046218
51~60万173933184
61~70万836304
71~80万528161
81~90万516121
91~100万2404
100円以上215
不明77107

(千葉県水産課資料 昭和30年)