この地区には川崎製鉄の用地造成と、東京電力の用地造成が行われた。
川崎製鉄の埋立地は、拡張も含めて、昭和三十二年に完成したが、すでに戦時中に漁業補償が行われていた。ここでの補償方法は漁業権に対する補償と、組合員に対する救済金とに分けられており、両者の合計は八七万二三六五円で、この金額は千葉市・蘇我町今井・曽我野各漁業組合に、昭和十六年に交付された。
また、昭和三十七年生浜地先に川崎製鉄第二工場用地造成工事が始まったが、漁業補償交渉については、昭和三十三年に一度、千葉市を通じて、川崎製鉄から生浜漁業協同組合に対し漁業権放棄の申し入れがあったが話合いがつかず、正式には昭和三十五年一月、県が申し入れをし、三十六年十二月に妥結し、漁業権は全面放棄した。
東京電力の用地造成は昭和二十九年に始まった。この面積は三六ヘクタール余で、現在行われている膨大な土地造成事業に比べると、至って小規模なものであるが、今日行われているような形態での土地造成を実現させる原動力となった点で極めて重要な意義をもつものとされた。
すなわち土地造成に当たって、公有水面の埋立免許を県が取得し、蘇我漁業協同組合と県が直接漁業補償交渉を行ったことである。それだけに交渉は困難を極め、県知事の陣頭指導のもとに、昭和二十八年末から二十九年秋にかけて連日連夜話し合いが行われた結果、昭和二十九年十月、一億三二九七万円をもって解決された。工事は昭和二十九年十月に着工し、三十年九月に完了した。
なお、その後昭和四十年にいたり、更に、この前面に六六ヘクタールの第二火力発電所用地造成が始められ、この補償についても地元蘇我漁業協同組合と県との間に昭和三十九年秋から交渉が始められたが、既造成地の第一火力発電所から放出される温排水によるのりの被害があり、また隣接の生浜漁場でも川崎製鉄の埋立によって漁場に被害が出たこともあり、漁業権の全面放棄の交渉へと進み、昭和四十年夏に総額一二億円で妥結し、四十一年四月に全面放棄が行われた。