4 貨物取扱い量からみた千葉港

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 前記『千葉港統計年報』によって海上出入貨物数量の推移をみよう。

 まず、総数の推移をみると、昭和二十九年に一四一万トンだった貨物量が年々増加し、昭和三十二年には前年の約五三パーセント増の二六九万トンに達した。昭和三十四年は前年の四一パーセント増の四一九万トン、更に、昭和三十八年には前年より一〇九パーセント増という驚異的な量を示し、約二千万トンになった。その後も増加の一途をたどりつづけ、昭和四十四年は前年の七三パーセント増の七千二百万トン、昭和四十五年は八千九百万トンの貨物量になった。もはや一億トンを超えるのは秒読みの段階にはいったともいえよう。これらの数字を全国的にみれば、昭和三十八年に全国九位、四十年は六位、四十四年は四位である。一〇年たらずのうちに全国十指にはいり、更に五年後五指にはいる港勢は、世界的にも稀にみるほどの発展というべきであろう。これらの順位は、全国主要九九港(重要港湾・特定重要港湾、昭和四十四年度)中のものである。全国主要九九港の貨物総取扱い量一三億六千万トンのうち、東京湾だけで三億一千五百万トン、全体の二二パーセントを占め、東京湾において千葉港は横浜・川崎についで三位である。全国では横浜・神戸・川崎・千葉の順になっている。四十四年の千葉港の貨物取扱い量は昭和四十一年の横浜の貨物量に匹敵する。これだけの大港湾に発展した千葉港ではあるが、進出企業の専用岸壁が大部分を占める工業港のため、千葉市民に港湾都市としての印象を与えていない。

鉄鉱輸送船の荷おろし

 第二に、貨物の輸移入と輸移出の割合をみると、常に輸移入が圧倒的に高くなっている。『千葉港統計年報』から目だつ年度をひろいあげれば、総取扱い貨物量のうち、輸移入の割合は昭和二十九年に七三パーセント、三十二年、三十四年は各八〇パーセント、三十八年は七二パーセント、四十四年は七四パーセント、四十五年は七五パーセントで、全体のほぼ四分の三は輸移入貨物になっている。

6―21図 千葉港取扱い貨物量の推移

 また、外貿(輸出入)、内貿(移出入、外国貨物でもほかの国内港湾を経たものは内貿扱いになっている)別にみれば昭和三十九年までは内貿が多く、昭和三十六年に六二パーセント、三十九年は五一パーセントである。しかし、昭和四十年になると内貿は四九パーセント、四十三年は四一パーセント、四十五年は四六パーセントとなって、外貿が上まわるようになった。そして、外貿では輸入量が輸出量を大幅に上まわっている。昭和二十九年以来四十二年までは、九九パーセントが輸入によって占められている。四十三年以降は九八パーセント、四十五年は九七パーセントになっているので、千葉港の場合、外貿とは輸入であるといってもよい。

 一方、内貿は昭和三十七年までは移入が高い割合を占め、昭和三十六年に七四パーセント、三十七年は六八パーセントだったが、昭和三十八年に移入は四八パーセントとなって比率は逆転し、その後移入は四十一年に三九パーセント、四十二年に三五パーセント、四十三年に五四パーセントになるが、四十四年に四五パーセント、四十五年に四八パーセントとなって、最近では全体的にやや移出が高くなっている。

 これらの数字は、千葉港区域内の臨海工業地帯の性格を反映したものである。遠浅海岸を埋立てて工業用地とし、それぞれに専用岸壁をもつ進出大企業の大部分は重化学工業である。広大な敷地と臨海であることを必要とする装置型工業である。また、素材生産に偏重して関連企業や下請企業を周辺に置くことがほとんどなく、ほかの二次・三次加工を多くもつ工業地帯に対して、素材供給の工業地帯となっている。この傾向は、工業地帯形成期の川崎製鉄、東京電力千葉火力発電所に加えて、その後に進出した石油を中心とする重化学工業が急増するにつれて、ますますその感を強めていった。日本国内に、これら進出企業のための原料や燃料はほとんどなく、石炭・鉄鉱石・石油などの工業原料や燃料は海外から大量に輸入するほかはなかった。これが千葉港を鉄鋼港湾・石油港湾といわれる工業港として特色づけたのであり、輸入比率を高め、大型船の増加をもたらしたのである。

 また、一次加工製品は海外へ輸出するより、同系資本や関連企業のあるほかの工業地帯へ移出することが多い。この場合、重量は減り、更に、京浜工業地帯やその周辺の工業地域へは大型トラックや鉄道貨物等の陸上輸送によってもかなり送られる。そのため、海上輸送による輸移出は減少する結果となる。これが入貨を多くし、出貨を少なくする傾向を顕著なものにしている原因である。

 内貿については、国内からの原料や素材の移入は、石炭以外はあまり期待できない。そのうえ、石炭の利用は、燃料革命によって石油におされ、燃料としての価値が減少し移入も衰退した。素材の移入の少ないことは前述したが、京葉工業地帯が在来工業や既成工業地域の発展という積み重ねの上に成立したものでなく、突如として、急速に発展したものであることも大きな原因である。臨海工業地帯が形成される前の千葉市をみれば、それは、官庁・学校・軍隊・通勤者住宅、そしてそれらを目当てにした商店街によって都市が成り立っていた消費都市だったからである。千葉市自体、これらの素材を加工する後背地になっていなかったのである。