近代化政策

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 昭和三十一年に決定をみた「新農村建設総合対策」は、このような情勢に対応するため、農業の基幹となる施設を整備強化し、経営を多角化、農民の自由な発意による適地適産の推進を意図したものである。具体的には八二の項目を自主的に組合わせ、四百万円の補助金の枠内で施設を整備しようとした天下り計画である。農村内の部落意識、利害関係の対立などから話し合いがつかず、多くの地域で有線放送だけが、納得のいく便利な事業として普及した。

 当時の市内について、新しい村づくり運動の状況を、市農産課編による『千葉市農業概要』から紹介しよう。

 旧市内北部に位する源町は畑作地帯で、主穀中心、その生産性は低かった。そこで経営近代化を促進するため、ビニールハウスによる集約栽培を計画し源町園芸組合が組織された。これには、地区農家の一割にあたる七名が参加した。そして鉄骨製ハウス六棟(三四八坪)、電熱加温、堀井一ヵ所から揚水かんがいを施設し、レタス・トマト・きゅうり・メロン・菊・いちごを作付し、共同出荷した。総事業費一、八三五万円のうち、国庫補助九三五万円、市費助成約五百万円であった。昭和三十五年度から実施をみたが、一〇年後の現地聞きとり調査によると、技術がともなわないので品質が落ち、買いたたかれて採算が合わなかったらしい。

ビニールハウス(宮野木町)

 検見川の北西地区では都市化の進展にともない、農業就業人口が減少するので、経営合理化のため対応策を検討、地元出身の農業委員秋元徳三郎を中心に、土地改良組合を結成し、次のような事業を行った。部落内の水田畦畔をコンクリート化することにより、漏水を防止して米の増収、くろ塗りと雑草刈取の労力節減を期待した。事業費三七〇万円で、幅一五センチメートル、高さ六〇センチメートル程度の畦畔を、延長五千メートル余を施設し(約八ヘクタールの水田)、年額五〇万円余の成果をえたという。三十五年度事業であった。

コンクリートあぜ

 長沼原土地改良区は、旧下志津演習場に戦後入植した開拓組合によるものである。極端な乏水性と、ローム層の劣悪な地味のため、畑作と酪農を結びつけることを協議し、三十五年三月に設立をみた。約二千万円の事業費で堀井二ヵ所(径三百ミリメートル、深度一二〇メートル)揚水機は五〇馬力二台、送水パイプ九千三百メートルを耕地に埋設、一二セットのスプリンクラーで畑地かんがいを行うものである。現在この付近一帯は、特色のある酪農集団地域として成長しているので、先覚者の努力を讃えてよい。

 このほか、三十三年度に白鳥谷津地区の土地改良、ブルドーザーの購入、三十四年度に畑地区の暗渠(あんきょ)排水、稲毛の水田客土、千種、長沼、大日、検見川、長作で共同集荷所の建設、下志津酪農協同組合でトラクター、牛乳運搬車の購入などがあげられる。

 都市化の発展とともに、周辺農家の近代化が要求された結果、個人有志による単独の萠芽的事業が、県農業改良課編の『農業千葉』に散見する。昭和二十年代後半には、星久喜町の深山光治が三百坪のトマト半促成栽培を行い、幕張五丁目の渡辺誠三は、加温ハウスで蔬菜と花をつくり、全国的に著名であった。同町の相葉民治は改良自家産種子で三寸人参を特産し、若松町の能勢栄は里いもの半促成をくふう、泉町御殿部落の貫井欣哉は耕うん機を導入、余剰労力で豚の飼育を進めていた。

 昭和三十六年に公布された「農業基本法」は、小規模、手労働による経営を是正し、近代化・合理化こそが、農業の向かうべき新たな道として、離農の促進、大型機械の導入、協業化による自立育成を図ることにした。

 これより先、昭和二十三年「農業改良助長法」の制定があり、農業生産の現場における諸問題を、キメ細かく不断に指導し援助する農業改良普及員の活動があった。こうして外からの構造改革、内からの技術革新が進行する昭和四十年代は、いよいよ農業と農民は両極化し、一方は専門的・企業的な農業に、他の一方は脱農化を促進することになった。中間にある自給農家や後継者難の「三ちゃん」農家は、近い将来、住宅地の谷間に消え去ることだろう。