農業と他産業の均衡を図るためには、低い生産性が問題である。生産を向上するには、技術の進歩と資本投入の増加があり、あるいは経営面積の増大が考えられる。生産基盤(土地)の整備、立地条件に即して比較的有利に大量生産し、大量出荷で有利に販売できる基幹作物の選定、そのための近代的施設をセットした総合事業を、農業構造改善事業と呼んでいる。一地区当たりの事業費平均一億一千万円、うち補助事業の平均二分の一(約四千五百万円)が国庫支出、他は地元負担及び融資により調達されることとした。本市域では七地区が実施をみた。しかし、この問題に対処するには地区としてのまとまり、土地利用計画の樹立が必要であるが、都市の周辺では事業対象として考えることすら困難であろう。また一部には、計画から実施までの時間の推移が、その必要性や協業化に対する意欲を低下させ、分裂するなどして、せっかくの施設が遊休化した例も耳にする。昭和四十六年からは、特に流通対策を前面にした第二次改革事業が指定されようとしているが、千葉市域内についてどうであろうか。
| 地区を越える事業 | 受益戸数 | 事業主体 | ||||||
| 地区 | 農家数 | 水田 | 普通畑 | ハウス | 実施時期 | 土地基盤整備 | 近代経営施設 | |
| 向地区 | 24戸 | 9ha | 31ha | 14,990m2 | 昭和37~39年 | 畑地かんがい | 1台 | |
| 畑地かんがい実施,穀作より野菜に転向,所得の向上と安定を図る。また機械導入により省力化を図る。 | 20ha | 1棟 | ||||||
| 670万円 | 7セット | |||||||
| 1棟 | ||||||||
| 427万円 | ||||||||
| 水砂地区 | 34戸 | 6ha | 33ha | ― | 畑地かんがい | 1台 | ||
| 計画構想は上に同じ。 | 32ha | 1棟 | ||||||
| 1,008万円 | 10セット | |||||||
| 1棟 | ||||||||
| 632万円 | ||||||||
| 神場地区 | 36戸 | 13ha | 34ha | ― | 畑地かんがい | 1台 | ||
| 計画構想は上に同じ。 | 20.7ha | 1棟 | ||||||
| 748万円 | 7セット | |||||||
| 1,019万円 | ||||||||
| 富田地区 | 90戸 | 20ha | 56ha | 15,000m2 | 昭和39~41年 | ほ場の整備 | 1台 | |
| 計画構想は上に同じ。 | 畑地かんがい | 1棟 | ||||||
| 38ha | 9セット | |||||||
| 1,764万円 | 2,113万円 | |||||||
| 長作地区 | 287戸 | 42ha | 97ha | ― | 昭和40~43年 | ほ場の整備 | 1台 | |
| 米,麦中心から米+野菜として,とくに野菜の拡大を図る。 | 35ha | 1棟 | ||||||
| 272万円 | 337万円 | |||||||
| 米之内地区 | 245戸 | 40ha | 116ha | ― | ほ場の整備 | 1台 | ||
| 米+野菜及び肉用若鶏に経営改善,水稲の省力化を図る。 | 32ha | 1棟 | ||||||
| 393万円 | 422万円 | |||||||
| 大和田地区 | 100戸 | 35ha | 127ha | ― | ほ場の整備 | 1台 | ||
| 労力の節減と自給飼料の確保,酪農経営の向上に努める。 | 53ha | 10台 | ||||||
| 畑地かんがい | 1台 | |||||||
| 23ha | 10セット | |||||||
| 816万円 | 2台 | |||||||
| 592万円 | ||||||||
(『農業構造改善事業十年の歩み』昭和46年2月刊 県農政課)
農業改良普及員の任務は、自らの生産手段を用い、主体的な意欲にもえる農民に対して、有益かつ実用的知識を具体的に普及するところにあり、農家にとって良き案内役、時には先生であり、時には友人として親しまれ、その成果をあげた。
緑の自転車をシンボルとして、農業生産の現場に乗りこんで、実態に即して応用する態度は好感がもたれた。この普及事業の受入れ体制を整え、部落ぐるみの発展に努力した農事研究会組織がある。その主な協力団体と代表者(リーダー)の名を六―四一表に掲げる。また、昭和二十四年ころの混乱の中で、不健全な心理が農村にただよっていたころ、新らしい技術をもちこみ、生産性向上に役だった「四Hクラブ」の存在も特記すべきであろう。
| 名称 | 中心となった人 | 会員数 |
| 多部田農事研究会 | 森谷安衛 | 15 |
| 千葉中 〃 | 林一夫 | 25 |
| 鎌取 〃 | 大塚豊 | 28 |
| 谷当 〃 | 平川健治 | 30 |
| 古市場 〃 | 内海八郎 | 18 |
| 更科青年連盟 | 山本忠 | 40 |
| 有吉改良普及会 | 大塚治郎 | 20 |
| 野呂愛土会 | 石井豊 | 30 |
| 農愛(若松町)同志会 | 松戸与作 | 18 |
| 千葉寺親交会 | 大塚正夫 | 13 |
| 源町五月会 | 増田実 | 22 |
| 殿台町農事研究会 | 宍倉重雄 | 23 |
| 萩台町 〃 | 萩原進 | 19 |
| 稲毛町 〃(5丁目) | 中村重司 | 12 |
| 畑町 〃 | 中台七平 | 19 |
| 大森町みどり会 | 大塚隆司 | 13 |
| 星久喜巴会 | 佐野良昭 | 7 |
| 坂尾農事研究会 | 長妻源昇 | 13 |
| 作草部 〃 | 高山一夫 | 14 |
| 大草 〃 | 石井正治 | 9 |
| 天戸 〃 | 皆吉清司 | 20 |
| 花島 〃 | 渡辺要作 | 6 |
| 長沼青年共栄会 | 津田操 | 9 |
(『普及事業20年の歩みと今後』昭和43年11月刊)
科学的にものを考える頭脳(HEAD)、農業改良と生活改善に役だつ技術(HAND)、誠実で友情に富む真情(HEART)、そして楽しく元気に働らくための健康(HEALTH)の育成がそのモットーであった。生実町に苺栽培を導入したのは、この四Hクラブの活動によるものという。昭和二十八年には農村青少年クラブと改称、網羅主義から具体的プロジェクトにとりくみ、実績をあげた。農業後継者の質を向上し、前途に希望を抱かせた点で功績は大きい。