畑作付の変容

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 乏水性の台地に、粗放的大規模経営に適した甘しょが衰退し、同じような性格をもった落花生が、千葉市域内に登場したのは、昭和三十年ころであった。麦と落花生の輪作は病害がともなうので次第に衰退する傾向があり、核心地の八街町から遠心的に移動していったが、連作障害の大部分がネマトーダによることが判明したのは三十一年であった。このほか黒渋病、褐斑病には石灰硫黄剤、硫黄粉剤の効果が千葉県農業試験場で三十二年に実証されたことも、作付増加に寄与している。昭和十三年に発見された「誉田在来」種は、作り易いが収量不安定な立性大粒種と、掘りとりや管理に労力のかかる匐生種を合わせたもので、その後系統選抜を行い固定化を図った結果、「千葉半立(はんだち)」種が育成されたことも重要である。これは耐肥性が大きく、実のつきが良いとされている。テーラー型耕うん機の導入が作付面積をふやし、収量増に刺激されて掘りとり機、脱さや機の考案もある。昭和三十九年二月の農業基本調査によると、市内の作付面積二、五六六町歩は、県内の一三パーセント強にあたり、全畑地面積の五四パーセントを占めていた。落花生を販売高一位に挙げる農家約四千戸は、市内農家のこれまた五二パーセントに及んだ。

落花生の収穫(中田町)

 落花生栽培の振興に寄与した「千葉半立」の例でみるように、農作物の優良種子、果樹苗木などを試験・調査の後、改良品種を配布した千葉県育種農場は、昭和二十五年、誉田に拠点をおき、成東・市原・成田分場を統合して設置されたものである。袖ケ浦カントリーに入る道路右側の小松林の中に、約七ヘクタールの敷地をとり、落花生四トン、麦三・五トンを始め、葉・根菜種子八千リットル、果菜類三千三百リットルを配布した。

 昭和二十三年に種苗法の制定があり、戦時統制を解かれたので、その後は民間育種も盛んとなった。一代雑種F1の利用が進み、現在では西瓜・なす・きゅうりなど自家採種は行わないという。鎌取駅近くにあるみかど育種農場(本社は星久喜町)は二十年来交配によって野菜種子を育ててきた。幾たびか農林大臣賞の栄誉を受けている。

 千葉県全域の野菜生産額は、昭和三十二年、米、いも、畜産についで第四位(構成比九・五パーセント)であったが、四十年には作付面積は二倍となって四万ヘクタールを越え、米についで第二位(構成比二三パーセント)となり、四十五年には第一位(三三パーセント)と急上昇した。農地転用や労働力流出にもかかわらず、作付面積比率は、東葛二三パーセント、印旛二二パーセントにつぎ、千葉市域は一一パーセントを占め、近郊園芸農業地帯として高く位置づけられている。しかし六―四三、四四表でみるように、小規模農家により、多様な作付が行われているので、市場における競争力は弱い。

6―43表 主要農作物の作付面積と対県占有率
※但し基礎となる畑面積約4800haは8%弱である。
38年作付面積占有率指定野菜の主要産地
ha
水稲2,1942.4
小麦1,9407.7
大麦3953.9
ビール麦6798.5
とうもろこし(未成熟)374.9
大豆(未成熟)143.1
そら豆( 〃 )306.1
甘しょ7703.8
じゃがいも2086.1
なす768.5
トマト334.8
きゆうり825.4
◎西瓜1518.0下田,佐和,富田
◎大根1634.5若松,平山,高田
◎人参677.5武石,天戸,犢橋
玉ねぎ365.2
◎里いも1635.8平山,中野,富田
◎ねぎ914.3畑,幕張,検見川
◎白菜1055.1若松,畑,平川
◎キャベツ876.0畑,若松,長作
◎れん草1105.4平山,平川,畑
らっかせい2,56613.2
◎ごぼう223.7小間子,富田,高田
◎メロン228.6内山,長沼,小間子
◎印は,42年度特産指定野菜,但し土気地区は含まれない。

(『千葉市農業概要』昭和42年)

6―44表 地区別,ビニールハウス及び温室面積(土気地区は含まれない)
地域名ビニールハウス加温温室無加温温室
戸数面積(m2戸数面積(m2戸数面積(m2
検見川1100
都賀123144677286
104,261
千城171,47612,000
犢橋5529,662175
幕張31,4071750
生浜21,040
椎名122,838
誉田3415,38831,814
257,91266141172
総計15964,215133,906122,372

(『千葉市の統計 農業編』昭和43年2月統計課)

 農業経営の安定向上を図るには、土地生産性の増大を中心に、収益性が高く、地域性に合った作物を選定し、主産地の大型集団化、共販体制を確立して、有利な販売をすることが望まれるようになった。

 千葉市農産課編による『農業概要』四十二年度版によると、一〇種目に九二〇ヘクタールの作付奨励が行われていたことがわかる。このほか、消費経済の変化に対応した企業的農業の方向づけのため、ハウス・温室を利用した施設農業の推進も図られた。

 また、穀作からの転換作物として、経営規模の小さい小倉・誉田・平川地区にはぶどう、宇那谷・園生・犢橋地区には梨などの、労働集約性が高い果樹栽培を勧め、一方、経営規模の大きい若松町や泉地区には、労力配分を考えて粗放的な栗を植栽する振興事業がある。

 小倉観光ぶどう園――産地銘柄のない弱味から、市場出荷は不利なので、観光土産として直販することにし、現在では需要が多く、販売量の二分の一を逆に市場からとりよせさえしている。都市近郊という有利性を生かすとともに、潮干狩が消えたあとの市民の憩いの場となっている。昭和三十二~三年ころは二〇人程の共同経営で出発したが、植えさえすればもうかるという安易さに依存したものは脱落、ほかの職への転業も拒みきれなかったものらしい。軽量型鋼と強化プラスチックで二千坪分の園地をおおった施設は、全国唯一のもので、病害源の侵入を妨げ、塩害・鳥害を防ぎ、日射しを平均的に拡散して、収穫を約一ヵ月早める利点があるという。近年の利用客数は六万五千人、ほとんど市内から八、九の二ヵ月に集中してやってくるという。有名な山梨県勝沼地方では、一園当たり三万人程度でも過密気味になるといわれるので、この観光果樹園の六万人を越える入園者はとくに多い。それは当地方ではこの種のものが少ないからであり、その収益の高さもかなりなものであろう。市内にはこのほかに、柏井町に五〇アール程度で花見川団地に直売する農園と、誉田に東京からの固定客で経営を維持している農園がある。

観光ぶどう園

 生活様式の変化向上により、今後は草花・植木の需要がますます増大すると考えられるので、この方面の振興対策も必要となってきた。昭和四十二年度には、洋らん、その他観葉植物を扱う農家三戸、バラ・シクラメン・菊・カーネーションなど七戸、さつき・つばきの苗木繁殖にあたるもの一戸があったが、近年は急激に増加しつつある。泉・犢橋地区では植木の生産が盛んとなり、かいづかいぶきなど針葉樹四万本、まさき・まてばしいなどの常緑広葉樹三万本、さつき・つつじなど株玉もの一〇万本を四十二年に生産している。

 笠川農園――胡蝶らんやシンビジュームを栽培する特異な農園である。戦後、梨畑を開いたが手間がかかる割に収益が思わしくないのでとり止め、昭和三十二年ころから、切花を主体とする温室園芸を始めた。重油を燃やして八〇度Cの温水を循環させる温室が、現在では一三棟(千六百坪)、台地上に立並んでいる光景は見事である。一輪単位で値の決まる蘭花が一〇本入りの箱六~一〇個を、週一~二回東京市場に出荷している。アメリカ、東南アジアから年百万円余も新品種を導入してくふう改良を怠らず、夏季は長野県茅野市に疎開して花つきを良くするなど、経営投資額は大きい。余裕のある資金と、学識経験、そして出荷の目利きなど、他に追従を許さない高度の園芸農業であろう。

らん栽培

 平川のポットマム――昭和四十年に始まったばかりで、最も歴史の新しい花き栽培であるが、現在ではシクラメンにつぐ第二位の生産額に達し、企業的農業そのものである。菊の開花習性に応じ、長日条件の下ではシェードを施し、短日のときには電照、しかも暖冷房を加えることにより、一年中、週一回の出荷という生産体制が組まれている。ポットマムは秋菊なので品種も多く、温室の中はあたかも工場の流れ作業のように、生育の段階ごとに苗が切れ目なく次々と育っている。電話線のような細いビニール管が各々の鉢にかんがい水を供給し、スイッチ一つで統御できるようになっている。平川町の三戸の共同経営で六千七百万円の設備投資をして、千三百坪の温室を整えた。枝芽や余分なつぼみを摘みとることは人手によらねばならず、量産を阻むネックであるという。

 出荷価格の良いのは春三~五月ごろで、一鉢が平均二百円にもなる。主として東京市場だが、県内にも供給されている。

平川の菊鉢づくり