消費傾向の質的な向上、構造変化に対応して、畜産は発展が著しく、昭和三十五年と四十二年を比較すると、乳牛は二倍、豚二・五倍、鶏三倍の増加を示している。しかし、いずれも飼育農家が減少しているので、一戸当たり飼育規模が、乳牛の場合、三十五年の一・八頭から、三十八年二・七頭、四十二年三・六頭となり、豚は同年度をとると、二・五頭から五・七頭、一二・三頭となるなど、専業化していく傾向にある。市としての指導重点は飼養環境、家畜衛生、流通機構の整備におかれていた。多頭化に対する乳用子牛の確保を図るため、富田町に育成牧場を、四十二年末に設置した。一〇ヘクタールを越える草地が林地の中に展開して、生後三月から二、三ヵ月間、委託育成を行い、六〇頭余を収容する牛舎施設、サイロ能力を備えている。経営は下志津酪農協同組合があたる。牧場は都市化の著しい千葉市にとって、貴重な緑資源であるから、公園なみに一般にも開放され、憩いの場として利用されている。
下志津酪農協同組合は長沼原町、国道十六号線沿いに位置している。下志津原に入植した八開拓組合の中から、酪農振興と組織強化を痛感した有志六五戸が、乳牛八〇頭で、昭和二十八年に結成した。三十一年以降佐藤正三郎を組合長とし、有能なスタッフの協力をえて発展、現在では組合員二三〇名、乳牛三千四百頭を数える優秀組合に成長した。組合員に対する一般営農指導、人工授精、乳質改善、自給飼料栽培普及のほか、多頭化飼育家の省力化に協力する目的で、トラクターや、大型農機一式を装備した。四十三年には日産一〇万本の処理能力をもつ工場を建設した。タンクローリー三台、集乳車若干を動かし、佐倉・茂原・木更津方面を集乳圏としている。加工びん詰牛乳の供給先は主として学校給食であるが、四十六年には千城台西に、直販センターを設け、好評のようである。
付近には草地酪農研究農場がある。もと開拓者の協同経営による農場で、北海道酪農協同組合が種苗の研究生産を委託していたが、集中排除法により分離独立して雪印種苗株式会社が昭和二十五年に誕生し、四十二年に整備されて直営となったものである。試験圃二ヘクタールを含め、敷地一五ヘクタールに、えん麦、飼料かぶ、ソルガム、各種グラース類が栽培され、分析・飼養試験のほか、種苗や飼・肥料、農薬の販売を行っている。
若松町には、千葉県家畜商協同組合が昭和四十七年に設置した家畜市場が、鎌池から南東に向かう御成街道左側にある。ここには牛舎、豚房、せり場を始め、近代施設の完備した市場が準備されており、取引を契機に家畜育成の助成に貢献している。毎月二と八の日六回は牛馬市、豚は四回の市が立ち、完成後一〇ヵ月間で成牛一万頭、子牛七千三百頭、子豚一万四千頭が取引された。この御成街道をそのまま南下すれば前述の、乳牛育成牧場に通ずるので、市心を囲む同心円状の酪農地帯を貫ぬく「カウ・ストリート」ともいえる。
畑地の対県比率八パーセント弱に対し、乳牛や豚の飼育率が低いことは、牧畜が土地利用に関して、他の農産物に比して、生産性の低いことを示している。悪臭や排泄物の処理をとおして「畜産公害」のことばさえ新聞紙上に散見するこのごろ、都市近郊農業地帯では、これ以上の発展はみられないものと思われる。昭和四十年までの一〇年間に、飼料の需要は六割増に過ぎないが、輸入量は一一・五倍という驚異的な増加をみた。これは生産原価の上昇に直結する。農業改良普及所の資料によると、低位生産性の広葉樹林(雑木林)を草地として開発すべきだとし、県内に六万五千ヘクタールも残存するが、都市近郊には二パーセント、北総台地に七パーセント、中部山間地に七一パーセント、残り二〇パーセントは安房に分布するというから、本市域内では、南東部の誉田・土気方面に若干の活路が残されていると思われる。
古い農産物に頼っていた土気地区では、昭和三十五年ごろから乳牛をとり入れ、一〇年後には一七〇戸、千八百頭に伸び、市町村別頭数では県下の最大地域に成長し、年間四億五千万円の収入中二億円を稼いでいた。ところが約七百戸の旧住民に対し八百戸の新住民が押し寄せ、人口が倍増したので「牛が臭い、ハエの温床だ。」という苦情が土気酪農協同組合や農家に集中した。牛の数は横ばいだが、四十六年の一ヵ年に十数軒がやめてしまったという。特に宅地造成の進んでいる荻生地区では六戸が集団で廃止した。ハウス農業に切替えた方が見た目にきれいだし、後からきて身勝手ないい分だと思うが、人情には勝てないというのが、その事由だとしている。