昭和四十七年十二月、市長に提出された農政審議会答申書並びに統計資料などによると、市内の農家戸数の減少率は、昭和四十年以後一・五~二・八パーセント、特に昭和四十六年は前年比四・六パーセントで大幅な低下を示した。後継ぎのない農家は二、六〇四戸、全体の三八パーセントに達している。市内の新規学卒者は中・高を合わせ約一万人であるが、農業就業者の実数は、三〇~五〇人前後にすぎなかった。今後の農業に対する意向をつかむため、審議会が行った全農家に対する調査(四十七年三月、回収率七二パーセント)では、将来も続けると答えた農家は一、二八八戸(二五パーセント)、農業をやめる一、六五四戸、不明二、一八七戸で、四分の三は積極的な意志がないとみられる。後継者不足もその理由だが、農業経営に見込みがないこと、老齢で働けない、やめても生活できるとも答えている。やめる時期は一〇年後とするものが四一パーセントであるが、直ちにという答えも七パーセント強あった。農業の協業化、集団生産組織に参加したい、あるいは委託耕作希望農家は、それぞれ三百戸余りで、農業規模拡大も期待がもてそうにない。
経営規模 | 作物名 | 作型 | 作付面積 | 10a当たり収量 | 生産量 | 単価 | 粗収入 | 所得率 | 所得 | 所要労働 | |
地目 | 面積 | a | kg | kg | 円 | 千円 | % | 千円 | 時間 | ||
畑 | 80a | にんじん | トンネル | 40 | 3,000 | 12,000 | 57 | 684 | 55 | 376 | 1,056 |
えだまめ | 6~7月どり | 20 | 1,200 | 2,400 | 97 | 232 | 70 | 162 | 384 | ||
みつば | 軟化 | 10 | 600 | 600 | 632 | 379 | 70 | 265 | 1,280 | ||
キャベツ | 秋どり | 20 | 3,000 | 6,000 | 29 | 174 | 55 | 95 | 294 | ||
こかぶ | トンネル | 10 | 5,000 | 5,000 | 30 | 150 | 65 | 97 | 384 | ||
ほうれんそう | 秋冬どり | 30 | 1,600 | 4,800 | 62 | 297 | 70 | 207 | 768 | ||
ねぎ | 〃 | 40 | 3,000 | 12,000 | 52 | 624 | 60 | 374 | 1,536 | ||
さといも | 早堀り | 20 | 1,000 | 2,000 | 104 | 208 | 50 | 104 | 300 | ||
水田 | 50 | 水稲 | 50 | 480 | 2,400 | 140 | 336 | 70 | 235 | 225 | |
計 | 130 | 延240 | 47,200 | 3,084 | 1,915 | 6,227 |
経営規模 | 作物名 | 作型 | 作付面積 | 10a当たり収量 | 生産量 | 単価 | 粗収入 | 所得率 | 所得 | 所要労働 | |
地目 | 面積 | a | kg | kg | 円 | 千円 | % | 千円 | 時間 | ||
畑 | 120a | きゅうり | 半促成 | 23.1 | 10,000 | 23,000 | 110 | 2,530 | 45 | 1,138 | 3,680 |
トマト | 抑制 | 23.1 | 5,000 | 11,000 | 118 | 1,298 | 55 | 713 | 2,502 | ||
果樹 | くり | 70 | 316 | 2,212 | 200 | 442 | 70 | 309 | 406 | ||
植木 | カイズカイブキ | 20 | 300本 | 600本 | 300 | 180 | 62 | 111 | 440 | ||
(1,500) | |||||||||||
サツキ | |||||||||||
ツツジ | |||||||||||
水田 | 30 | 水稲 | 30 | 480 | 1,440 | 140 | 201 | 70 | 140 | 135 | |
計 | 150 | 延166.2 | 37,652 | 4,651 | 2,411 | 7,163 | |||||
600本 | |||||||||||
(『農業千葉』昭和47年7月)
地区 | 計 | 専兼別 | 専業率 | ||
専業 | 一兼 | 二兼 | |||
総計 | 6,898 | 1,612 | 2,462 | 2,824 | 23.4 |
旧市内 | 2,163 | 452 | 634 | 1,077 | 20.9 |
犢橋 | 696 | 171 | 232 | 293 | 24.6 |
幕張 | 439 | 69 | 204 | 166 | 15.7 |
生浜 | 462 | 30 | 114 | 318 | 0.6 |
椎名 | 323 | 34 | 112 | 177 | 10.5 |
誉田 | 773 | 183 | 253 | 337 | 23.7 |
泉 | 1,315 | 415 | 630 | 270 | 31.6 |
土気 | 727 | 258 | 283 | 186 | 35.5 |
(『千葉市農政審議会答申書』付属資料 昭和47年12月)
千葉市農業委員会で農家台帳を集計した結果によると、市内の一戸当たり耕地面積は八四・六アールであるが、土気地区は一二〇・九、泉地区は一〇六・五、犢橋地区は九八・四、誉田地区は九三・五アールとなり、これら地区は専業率並びに農業継続意向の、ともに高い有力な地域である。市としては、土気地区に対し、駅周辺を除く全域を調整区域に編入、緑と調和のとれた農業振興計画を練っている。優良農地集団には、住宅・工場など農業以外の土地利用を許さず、土地基盤整備を集中的に行って、里芋・ごぼう・いちご・西瓜を奨励し、酪農を助成することにしている。しかし、民間デベロッパーの虫喰い開発、札束攻撃にゆらぎ、絵に描いた餅と化しそうである。
千葉市農政審議会は都市化に対応しながら、長期的展望に立ち、食糧自給という社会的使命を発揮し、農民生活の安定を図るべく、次の五項目を主要政策とした。
(一) 農業生産基盤の整備、(二) 市街化区域内の農業と、農業振興地域の推進、(三) 農業近代化と流通価格対策、(四) 農協の活動、(五) 農政センター設置がこれである。
農業労働力の減少・省力化のためには大型機械の導入が予定される。このためには農地の区画形状、取水方式、乾田化などの技術検討を重ねたのち、優良集団農地の造成を推進しなければならない。侵食谷に分布する湿田で、一戸当たり所有地が小さく、専業率も低いうえ、地形的条件も悪く、事業費がかさむので土地改良は阻害されてきた。農道の拡幅・直線化・舗装も必要である。新農村建設運動、構造改善事業に加えて、市の単独事業などで、水田は天戸・長作・大和田を中心に二四四ヘクタール(市域内水田の一三パーセント弱)、畑地かんがいは泉・誉田・幕張、犢橋など一〇ヵ所二一八ヘクタール(六パーセント強)の実施をみている。共同育苗、機械による省力化、集・選果場の建設、組合による共販体制の強化など実績のみるべきものがある。
住宅・工業用地の造成に伴い、平常の降雨でも河川排水が滞る状況であるが、汚濁水の流入は農業用かんがいに不適当な結果になってきた。土気地区から北西に流れる鹿島川沿い(上流の平川など)、鎌取・辺田付近、都川、花見川の汚染はひどく、しばしば新聞に報道されている。また一方では農薬の使用について、四十六年には人畜に対し毒性が強いと認められたDDT、BHC、パラチオンなど一二種二五品目が、四十七年には野菜の殺ダニ剤など六種四品目の指示追加があり、農業生産を維持するに不可欠な双刃の剣をどう扱うかが、問題になってきた。前述した畜産公害のほかに、施設農業における使用済みのビニール、ポリエチレンの廃棄方法も話題となるにつれ、いよいよ農業は、都市市街地内での存続が許されぬ限界にきている感が強い。
昭和四十五年七月、新都市計画法に基づく線引き事業と平行して、「都市農業」の用語が使われるようになった。千葉県農林部は都市化地帯の新しい農業の在り方を、生産緑地と園芸ランドの二つの構想により推進することを決め、千葉市でも事業サイドから検討し、協力する方針で、四十八年には具体的な方向が明らかにされるだろう。市街化区域内に優良農地を生かすことは、新鮮で安価な農産物を供給するほか、公園を造るより安く、災害時の避難場所として利用できる利点がある。現在誉田中学校東側にある三〇ヘクタールに及ぶ明治大学付属農場は、昭和十六年、戦火にさらされる不安と、物質的不自由に困却することなく、学究の道にいそしめるよう土地を買収し疎開したものである。うち一〇ヘクタールを学生の実習にあてているが、四十六年末、幸町東自治会と契約して栽培、農産物を直販し、代価を平均三割安で供給したが、生産緑地の先取り試行として紹介するにたりる。一〇品目、週一回、三~四万円の売上げであった。近郊団地と生協が直結する動きが目立っているが、県内では初めてのケースという。
自然に親しむ機会のない都会人に園芸ランドは農業をレジャーとして与えるのがねらいである。果樹類のもぎとり、甘しょ・落花生の掘りとり、家庭農園・盆栽・植木・花きの技術指導、直販も考えられる。
農政審議会で答申した農政センターは、魅力ある農業の在り方を実験、展示しながら、農業技術の研修、後継者育成に役だてようというものであるが、緑地空間を保全し、各種のモデル栽培や、小動物の飼育など社会教育に資し、市民の憩いの場として設定されることが望まれている。
緑のネットワークの核心として、四十八年から三ヵ年計画で実現しようとしている、星久喜町緑化センターは、市民が自分の手で育苗法を習う実習園としての活用を意図している。
なお誉田駅の南西大膳野町には千葉県農業センターが、昭和三十八年に設置されていることを付記したい。明治四十一年(一九〇八)東葛飾郡中山村に、園芸に関する試験研究を行う農事試験場として設置された。大正二年松戸園芸学校に併設ののち、大正十一年(一九二二)現市内都町に移り、稲、麦、甘しょ、落花生を初め、果樹・野菜・畜産部門に拡張、農業改良普及員の養成にも当たってきた。研究の成果、内容については、昭和四十四年三月に刊行された『試験場六十年史』に詳しい。ここには農業機械化センターも置かれ、大型農機の展示、運転実習に当たっている。
十字科野菜の採種園から出発、甘しょ・落花生原種育成に努めた誉田育種農場は、昭和十二年の設立である。
また、近代農業の担い手を育成する農村青年研修館が隣接して置かれている。ここには宿泊のできる研修施設としての農村青年の家、農業高等学園経営部があり、中卒者を二年間、全寮制で収容、必要な農業教育を授けて全県に送り出している。もと加藤寛治による日本国民高等学校、昭和初めの農村道場の流れを汲む、誇るべき指導方針は、四十六年三月に発行された『館史』に詳しい。同学園家政部は土気町に設けられている。昭和三年(一九二八)、蘇我町に設立された県農会立家政女学校が、蘇我付近の工場地化に伴い、好ましくない環境に変わったことから、昭和十八年現在地に移転、三十七年家政部として移管された。