百万都市として大きく伸びようとする千葉市は、海に向かって果てしない広がりと、後背には広大な緑の空間を備えている。これは市民が共有するかけがえのない財産であり、その資質の活用は個性をつくり、大きな特色を生むものである。
市民がしたたる緑と明るい太陽を享受し、健康な生活を謳歌できる「緑と太陽の健康都市」づくりは、昭和四十八年策定の長期総合計画の構想の一つである。これより先、四十七年五月、市緑化推進課で横浜国大宮脇昭助教授に委託していた、緑の分布状況についての中間報告によって、いたましい破壊ぶりが明らかにされた。
調査対象となった市街化区域には、残存自然林は〇・七五パーセントの一〇五・七ヘクタールしかない。台地周縁の斜面、普通林が三分の一、個人の屋敷森が二分の一、社寺林は一四ヘクタール弱、公有地林はわずか二・八ヘクタールだった。別に、人工の加わった半自生林二六〇ヘクタールが存在している。
市緑化推進課によると、市全域の緑の減少テンポは急速で、年に約五〇ヘクタールの割で開発されてきたという。昭和三十五年と四十五年を比較すると、宅地は一四から一八パーセントに上昇、山林は土気町の緑を加えたにもかかわらず、二七から三一パーセントの上昇にとどまった。これからも宅地造成が集中するので、二~三倍のテンポで緑が奪われるおそれがある。消えていく緑はとり返しがつかない。四十六年四月、市は環境保全基本条例を延長して、樹林・樹木保存条例を全国に先がけて制定、補助金により枯損を防ぎ、伐採を抑制してきた。指定された保存樹木は、さしあたり最低五年間は保証された。
自然を生かした都市公園というキャッチフレーズで、千葉市土気地区に「昭和の森」を造成しようとする事業は、四十五年末に地元との話合いがもたれ、四十七年には予定地八八ヘクタールの五割弱を買収した。しかし、小食土町には、農業に意欲をもつ三十~四十代の後継者が多く、難航している。米作減反、農産物価の不安な中で、ビニールによる施設園芸、養蚕を盛んに行っているが、転業補償だけの札束目当てではいかない、交渉の接点をみることができる。また一方では、市街化区域内のスプロール(虫食い)現象を排除し、公共施設をとりいれ、宅地利用を推進するため、区画整理事業が進行している。四十三年に日本住宅公団の進出が決まり、周辺の乱開発が行われそうになったので、源町では組合を結成し、四五ヘクタールの区画整理に着手、工事費に充当する保留地を、日本新都市開発社に一括売却(二千六百平方メートル、一五億五千万円)したことは全国的に初めてのケースという。近い将来、高層マンション、一戸建て分譲住宅が建ち並び、医療施設やショッピング街を備えた、日本一の町づくりが進行することになろう。
このような社会・経済情勢の変動下にあって、農民の経済を守る立場から、五千余名の組合員をかかえる千葉市農業協同組合は、四十七年度事業方針として次の事業計画を通常総会に提案した。一、国からの資金導入、農民の土地提供による農住都市構造に参画する。二、資本集約性の強い企業的な都市農業に対する金融事業に重点をおく。三、消費者組織を含めた直販ルートの開発と系列化を行う。
ともすれば専業化と脱農という二極分解、作目の多様性にまどわされて、組合員の結束が薄れゆく現状にあるが、農協は農民の自主的、かつ唯一の系統組織であり、農業推進の母体となるものであるから、その健全な活動を期待するものである。
農業は国民の食糧を生産する基本産業であり、経済成長の基盤をなすものとして保護、育成されなければならない。農民自身が、このような社会的使命を自覚し、地域性に応じた農業を展開、生産性を高めることにより、自らの生活安定を確立できるように祈念する。