工業分布の状況

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 次に三〇人以上の事業所の町別分布とその内容を概観する(六―四八表参照)。

6―48表 昭和42年千葉市域における従業員
30人以上の工場,町別分布数
幕張93末広1
検見川2矢作1寒川1
稲毛8穴川21
横戸11川崎6
千種13作草部3宮崎1
犢橋3椿森1白旗1
長沼原2新町1蘇我3
長沼4新田1塩田6
山王1新宿3浜野4
小深2神明2村田1
六方52多部田1
園生7本町1中田1
若松3吾妻1誉田1
桜木5市場1土気4
小倉1亥鼻1
貝塚1葛城146町124

(『千葉市事業所名鑑』,土気町資料その他より)

(一) 千種町――事業所数は一三。この町が突如として一位にあがったのは、昭和三十八年に建設を開始した鉄工団地による。そのため内容は単純で、機械器具製造九、鉄工が四である。

(二) 幕張町――事業所数は九。この一〇年間に数的にも、内容的にも変化が少ない。

(三) 稲毛――事業所数は八。数的には変化はないが、内容的には、製粉、地図印刷が消失し、電気器具と化学が入った。この地区は、民間企業のほか、専売公社千葉工場、通商産業省アルコール工場が近接して立地しているのが特色である。

(四) 園生町――事業所数は七。一〇年前は、従業員一〇人の澱粉工場が唯一であったが、昭和三十四年以降東京からの移転(三敬)、臨海工業地帯の関連企業(石原産業、東洋酸素、川北工業)などの立地で急激に工業化が進んだ地域で、酸素・皮革・製袋・ロープ・電気器具・金属加工などがあり、内容は多彩である。

(五) 塩田町――事業所数は六。一〇年前は、電気銑鉄の東邦電化一社だけであったが、川鉄鋼板、川鉄コンテナなど川鉄関連企業が中心になって立地した。

(六) 川崎町――事業所数は六。従業員一万五千人の川鉄を中心に、川鉄化学、大阪富士工業がある。ここには、千葉製粉、山崎パンがあったが、その後、食品コンビナートに移転、川鉄王国となった。

(七) 六方町(五)・長沼町(四)・犢橋町(三)・長沼原町(二)・山王町(一)――一〇年前には、犢橋町に従業員一〇人余りの澱粉工場が三みられるだけだったこの地域は、園生町同様、昭和三十五年以降、東京からの移転(鬼怒川ゴム、日東紡建材、大和コンクリート)、市街地からの移転(二宮産業)、関西系企業の関東進出(住友重機、サンアルミニューム)によって、急激に工業化された地域である。反面、澱粉工場はすべて消滅した。園生町を含めこの地域は、企業が独自の判断で進出立地したのが大部分であるため、上下水道など工場地域としての諸条件に欠け、企業の内容、規模の多様性から、企業間の関連性を欠き、更に周辺の住宅地化、道路交通事情の悪化等、問題を多くはらんだ地域である。すでに、この地域から他の地域(真岡市など)への工場増設が行われている。

(八) 桜木町――事業所数は五。一〇年前はゼロであった。国道五一号線に沿う平坦な地域で、市街地から増田家具、ピーナツ加工の田畑、稲井、市場立地の旧東洋プレハブなどが立地した。この地区の場合、各企業が分散立地している。交通渋滞、住宅地化、騒音規制地区に指定など、工場立地上マイナス要因が増大した。

(九) 浜野町――事業所数は四。一〇年前はゼロであった。川鉄の関連企業である川崎電気工業と臨海工場群にプラントや機械設備を供給する赤原鉄工が中心である。

(一〇) 若松町(三)・都町(三)――一〇年前には澱粉一(二二人)、自動車部品一(二二人)であったが、都町には、弁当工場と印刷の交友堂、若松町には葛城町からの都一製麺工場と、はるさめ工場がある、

(一一) 蘇我町(三)・作草部町(三)・新宿町(三)――三町とも変化はなかった。蘇我町には、市内唯一の小泉製紙と、千葉火力発電所がある。新宿町には向後鉄工、参松、雪江畜産であるが、参松は食品コンビナート地区に移転した。

(一二) 市場・亥鼻・新田・椿森各町――各一工場の立地。新規にあらわれた地域で、すべて印刷業である。市中心部で成長する印刷業と周辺に追いやられた鉄工・家具・食品の姿がよみとれる。ただこの印刷業も後に住宅密集地域から離れたものや、ほかに用地を求めたものがある(草野印刷は椿森から殿台へ、阿佐印刷は市場から都町、多田印刷は幕張に用地を)。

(一三) 誉田地区――事業所数は一。農具・車両部品の三協プレスエ業。

(一四) 土気地区――事業所数は四。食品一と縫製一、靴下二である。

 以上を総括すれば、従業員三〇人以上の事業所は、数で四六から一二四、分布町数で二二町から四六町に増加した。事業所数は二・六倍、分布町数では二・一倍であり、工場立地がやや集中化したことがうかがえる。この一〇年間に新しい工場分布地域があらわれ、地域的なひろがりと、内陸部への拡大を示した。内陸部進出の場合の共通性は、東京との結び付きを第一とすることであり、第二には自動車輸送上の便宜と、用地の得やすさの合致した国道一六号線・県道船橋旭線沿いの開拓地・平地林を利用したことである。第三は、国道五一号線に沿う市郊外の平坦な地域を利用したことでもある。

 これらの企業地域は計画的に造成、立地したものもあるが、多くは任意に進出したものなので、工場環境の欠如や、周辺の住宅地化、操業上にマイナスの規制などによって再度移転が必要となったり、地価高騰で工場周辺の用地が入手難となり、当地での求人難も手伝って、市外地域へ新工場を設立した企業もみられる。

 臨海工業地帯の発展に伴う関連企業の進出、立地を中心として塩田・浜野地区の工業化が進展し、規模の比較的大きい金属加工・機械製造部門の企業が集中して立地した。

 多数の企業の進出にかんがみ、昭和二十七年九月十八日制定の、千葉市企業誘致条例は、「本市における企業誘致の実態は、今後とも条例に規定された奨励措置を講ずる必要がなくなった。」という理由で、昭和四十二年四月一日廃止となった。